聖書メッセージ『契約の愛』(ルカ22:14~20)

聖書箇所 ルカ22:14~20

22:14 その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った。

22:15 イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。

22:16 あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません。」

22:17 そしてイエスは杯を取り、感謝の祈りをささげてから言われた。「これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。

22:18 あなたがたに言います。今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません。」

22:19 それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。

 

説教要旨

2022年後半を迎え、また本日より時間と場所を一つとしての礼拝が再開され、二年数ヶ月ぶりに聖餐の恵みに与ります。この大切な主日、御言葉に聴き聖餐の恵みに与り、「新しい契約(v20)」とありますが、神の「契約の愛」を覚えていきます。旧新約聖書の「やく」は、「訳」ではなく、「約束」の「約」です。旧約とは「神の旧い契約」、新約とは「神の新しい契約」です。聖書において「契約」とは「神と神の民の関係の締結」を意味し、その本質は「わたしはあなたがたの神、あなたがたはわたしの民」です。これは旧新約聖書において一貫しています。(創世記17:7、出エジプト記6:7、エレミヤ書31:33、ヨハネ黙示録21:3等)さて、旧約は律法を守ることによって罪赦され神の民となるであったが、新約はイエス・キリストを信じる信仰によって罪赦され神の民となる、そういう意味で「旧い」と「新しい」との説明を見たり聞いたりします。旧約は「行いの契約」であるが、新約は「恵みの契約」であるとの説明です。しかし、それは誤りです。人間が創世記3章で神に背き「業の契約」を破って以来、神は「恵みの契約」を結ばれたのです。「恵み」とは「それを受けるに値しない者が受ける神の祝福」です。旧約も新約も一貫して「神の恵みの契約」です。

 

イエス・キリストは十字架にお架かりになられる前夜、弟子たちと最後の食事を取られた中で聖餐の礼典をお定めになられました。パンは主イエスが十字架で裂かれた体を、杯は主イエスが十字架で流された血潮を表わしています。「あなたがたのために(v19)(v20)」神は私たちを愛し、神に背き自分中心に生きてきた私たちの罪の身代わりに御子イエス・キリストを十字架にかけ裁かれたのです。主イエスの体が私たちの罪の身代わりに裂かれ、血潮が流されたのです。「わたしを覚えて(v19)」とは「思い出すこと」との意味です。聖餐の第一の意味はイエス・キリストを思い出すことです。「これを行いなさい(v19)」とは命令法現在形で継続を命じました。「血」は「身代わりの死(犠牲)」と「契約の成立」を表しました。

 

「新しい契約(v20)」とは何が新しいのでしょうか。それを考えるにあたりエレミヤ31:31~34を見たいのです。エレミヤは紀元前600年前後に活動した預言者です。ここでエレミヤは契約を破ったイスラエルの民に、神は「新しい契約を結ぶ(エレミヤ31:31)」と告げました。その「新しい契約」は、シナイ契約のようではないと告げました。「わたしを知るようになるからだ(エレミヤ31:34)」と神との深い交わりが与えられるというのです。それは罪の赦しと関係していました。旧約時代、神の民は動物を屠り、罪の赦しを得ていました。でも、それはあくまでもやがて完全ないけにえが捧げられることのひな型でした。ここで完全ないけにえ、救い主による完全な罪の赦しが与えられると預言されているのです。また、神の民は律法が自分の外にあって、それを自ら守るようにしてきましたが、新しい契約においては神の民の心の内に律法が書き記されるようになる、言い換えるならば聖霊がその人の内に住み、神の律法に従う力が与えられると言われています。完全な罪の赦しが与えられ、聖霊の働きが与えられ神との親しい交わりが与えられる、それが「新しい契約」でした。そして契約において「恵み」とセットとなっているのは「まこと(真実)」です。(詩篇98:3他)「まこと」とは神は一度結ばれた契約を誠実に守り抜いてくださるということです。そのようにして神は私たちのすべての日々において恐れなく親しく主に仕えるようにしてくださったのです。(ルカ1:72~75)私たちは神への信頼が揺れたり、残っている罪の弱さが出ることがあります。しかし神は決して変わることなく私たちとともにあってくださるのです。

 

パンと杯を食しつつ、私たちのすべての日に主が近くともにいてくださることを深く心に刻んでいただきましょう。