聖書メッセージ『苦しむ愛』(出エジプト記3:7~8)

聖書箇所 出エジプト記3:7~8

3:7 【主】は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。

3:8 わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。

 

説教要旨

神はエジプトの圧制に苦しむイスラエルの民を救おうとモーセをエジプト脱出の指導者に遣わされました。神はイスラエルの民の苦しみを「見、聞き、そして知られ」(v7)、心動かされ、何とかご自身の民を救おうとされたのです。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ(イザヤ63:9)」「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている(ホセア11:8)」神は機械的に客観的にご自身は余裕で民を助けられたのではありません。神は憐れみに胸が熱くされて、憐れみに胸を焼かれて民を救おうとされたのです。神の民への憐れみの心がモーセを遣わされたのです。父なる神の胸を焼かれる憐れみの心がついに神の独り子イエス・キリストを天から遣わされたのです。

 

では、イエス・キリストはどうだったのでしょうか。福音書においてイエス・キリストの思いが表れている大切な言葉があります。「スプランクニゾマイ」との言葉です。「深く憐れまれ」「かわいそうに思って」と訳されています。「内臓が揺さぶられて」との意味です。イエス・キリストは群衆を見られ深く憐れまれました。羊飼いのいない羊のように群衆の魂が弱り果てていたからです。イエス・キリストはナインの町でやもめのひとり息子が死にそのやもめをご覧になられ深く憐れまれました。そしてかわいそうに思っての後には、いずれもイエス・キリストの救いの恵みの御業(行為)が続いています。イエス・キリストは父なる神の憐れみで胸が焼かれる御心を受け、私たちが神から離れ罪とその悲惨の内にあることをご覧になられ、ともに苦しみ、深く憐れまれ、十字架の道を辿られ、十字架に架かり、自分の命を捨てて救いの御業を成し遂げてくださったのです。

 

では、父なる神と御子なるイエス・キリストの憐れみの心から救いの御業が成し遂げられ、その救いに与った今の私たちに対して主はどうでしょうか。ここで神はモーセにイスラエルの民をエジプトの圧制から救い出すだけではなく、約束の地カナンに導き上ると仰せられています。神は私たちを罪から救い出されただけではなく、天の御国に導き上ってくださいます。イスラエルの民はエジプトを脱出しましたが、約束の地カナンに入るまでに数々の困難や戦いがあったように、私たちも救いに与りましたが、なお救いの完成、天の御国に至るまでの旅路があり、戦いがあります。自分の内に罪が残っていてその罪との戦いや痛みがあります。言葉に言い表せない苦しみを抱えたり、苦しみの中を長く通らされることがあります。何が苦しいのか自分でも分からない、でも涙が自然に出てくるということもあるでしょう。そのような私たちの旅路において、神は私たちの苦しみを確かに見ておられ、叫びを聞いてくださっておられ、痛みを確かに知ってくださっておられます。そして、その神の思いは、他でもない、憐れみの心です。神は私たちの苦しむときにはいつもともに苦しんでくださっておられるのです。「救われたのに何故そんなに弱いのか」ではありません。「何故そんな同じような罪の歩みをなしているのか」ではありません。「何故愛せないのか」ではありません。「何故わたしを信頼でできないのか」ではありません。「何故そんな恐れるのか」ではありません。上からではありません。「下って来た(v8)」のです。「憐れみの心」です。ともに苦しまれ、何とか私たちを建て上げようと忍耐し、仕え、導いてくだっておられるのです。いいえ、神が、イエス・キリストが下って来られただけではありません。助け主なる聖霊は私たちの内に住んでくださったのです。そして聖霊は私たちのために「ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。(ローマ8:26)」

 

ともに苦しんでくださる主がともにいてくださいます。この主に正直に自らを見せ、叫び、知っていただき、主に導かれて歩んでいきましょう。用意されている主の恵みの御業を待ち望んでいきたいと願います。