聖書メッセージ『主を礼拝する』(出エジプト記20:1~6)

聖書箇所 出エジプト記20:1~6

20:1 それから神は次のすべてのことばを告げられた。

20:2 「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、【主】である。

20:3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。

20:4 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。

20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

 

説教要旨

本日から年間主題の後半部分「愛に生きる」、神を愛することを見、十戒の御言葉に聴いていきます。十戒は「戒め」で始まっておらず、神の「自己宣言」から始まっています。(v2)「主」とは「ヤハウエ」で「存在する」の動詞が元になっています。何にも依存しない根源者、すべてを造り治めておられる創造者、主権者を表しています。「あなたの神」、その根源者主権者である神がイスラエルを「わたしの民」と呼ばれる人格的な契約者であられるのです。神はイスラエルを「エジプトの地、奴隷の家」から救い出され、「わたしはあなたの神、あなたはわたしの民」と契約を結ばれ、ご自身との特別な愛の人格的な関係へ導かれました。言わば神とイスラエルは婚姻関係を結んだのです。それ故に神は「ねたみの神(v5)」と仰せられたのです。民に対する神の誠実で熱心な愛です。新約時代の神の民である教会に対しても全く同じです。神は「主」です。創造者、主権者であられます。その主なる神は「私たちの神」です。神に背き、罪の中にあった私たちを御子イエス・キリストの十字架の贖いの故に罪から救い出し、契約を結び、誠実に熱心に愛してくださっておられるのです。

 

神は自己宣言の後に十戒を語られました。出エジプトの出来事が十戒の授与に先立ちました。神の救いの御業がまずあり、救われたイスラエルの民に十の戒めを与えられたのです。十戒は救われるために守る戒めではなく、救われたイスラエルの民、教会に与えられた神の道しるべです。第一戒は「礼拝の対象」が教えられています。(v3)わたしのみを神とし、礼拝せよと教えられています。「礼拝」とは何でしょうか。「拝む(v5)」との言葉が旧約聖書において礼拝を表す言葉です。「口づけする」との言葉から出てきたと考えられています。地面に口づけする、「ひれ伏す」との意味です。礼拝とは、神の前にひれ伏すことです。私たちは今主の教会として礼拝を捧げております。また日々の個人礼拝があります。椅子に座っておりますが、その心は神にひれ伏すのです。神を愛するとは、神のみにひれ伏すことです。他の神々、人といったものを神としない、ひれ伏さないことです。教団の教憲では「偶像礼拝の罪を悔い改め、世の終わりまでキリストへの信仰を堅持する」と告白しています。また、ただ神々を拝まないということだけではありません。いつの間にか主、私たちの神を見失い、人の態度や評価、富や地位に心が支配されてしまうことがあります。しかし、神に立ち返り、神の前にひれ伏すのです。第二戒は「礼拝の方法」です。(v4~v5)神を形としてはならないのです。神が御自身を表してくださった御言葉に聴き、神を知り、ひれ伏します。

 

十戒を神がイスラエルの民に与えられたのは、シナイ山でした。この後イスラエルの民は約束の地カナンに向けての荒野の旅路がありました。食べ物に対する不安がありました。民の中に争いがありました。他の国との戦いがありました。私たちも体や明日の糧の不安があります。人間関係の痛みがあります。自分の内にある罪との戦いやこの世でキリスト者として生きていく葛藤や寂しさがあります。しかし、そういう私たちに神は道しるべを与えてくださっておられます。「わたしは主、あなたを罪から救い出したあなたの神、御言葉に聴きわたしの前にひれ伏せ」と。私たちはこの御言葉に促され、神の前に出、神にひれ伏します。その歩みに神は祝福を備えてくださるのです。(v5~v6)「恵み(v6)」としての祝福です。私たちはどこまでも弱さや神への不信頼がありますが、神の誠実な愛故の恵みとしての祝福をもって私たちを導いてくださるのです。

 

今、神の民、教会として神の前に出ています。神にひれ伏し、主の豊かな祝福の中に一週間を始めていきましょう。また、この週日々の歩みにおいて仕事場に出て行く車の中で、家族が起きてくる少し前に神の前にひれ伏し、神ご自身からの恵みの祝福に与っていきましょう。