聖書メッセージ『主を畏れる』(出エジプト記20:7)

聖書箇所 出エジプト記20:7

20:7 あなたは、あなたの神、【主】の名をみだりに口にしてはならない。【主】は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。

 

説教要旨

昨週より年間主題の後半部分「愛に生きる」ということで十戒より「神を愛する」ことを見ております。本日は第三戒を見ます。「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。(v7)」ここで再び「あなたの神、主(v7)」と語られています。「主(v7)」創造者であり主権者である神、そして「あなたの神(v7)」エジプトから脱出させ愛の契約を結ばれた神を示しています。神は天地万物を、そして私たち人間をお造りになられました。神は天地万物を治め、私たちに命を与え、生かし導かれておられます。その神は、神に背き、罪の中にあった私たちを愛し、私たちを罪から救うために御子イエス・キリストを身代わりに十字架にかけ、私たちのすべての罪を赦し、「わたしはあなたの神」「あなたはわたしの民」と契約を結び、私たちとともにおられます。

 

「主の名(v7)」とは「主ご自身」を示しております。「みだりに(v7)」とは「空虚に」「虚しく」との意味です。「口にしてはならない(v7)」とは元々の意味は「持ち運ぶ」「担う」との意味です。第三戒の背景には、古代近東の宗教があったと考えられています。古代近東の宗教は、神々の名を魔術的呪文的に使い、神々を自分の思い通りに操ろうとしました。しかし、神は「主ご自身を虚しく持ち運んではならない」と、主であられ、あなたの神を、古代近東の宗教のように、自分の思うように操ってはならないと告げられたのです。自分が主となって、神が従となることは、内実を持たない虚しいことであると仰せられたのです。第三戒は、主を主とすること、神を神とすること、即ち、礼拝の精神、主を畏れることを教えています。聖書において「恐れる」とは二つの意味があります。一つは、神の裁きを怖がる「恐れ」です。アダムとエバは、罪を犯した時に神を怖がり、木の間に身を隠しました。しかし、私たちは、神の裁きを怖れることはないのです。神はイエス・キリストの十字架の身代わりの死のゆえに私たちの罪を完全に赦してくださったからです。パウロは、ローマ8章で、クリスチャンが残っている罪の性質の故に罪の歩みをなし、赦されないのではないか、裁かれるのではないかとの怖れをもつことに対し「人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。(ローマ8:15)」と告げています。神は確かに私たちの罪を赦し、神の子どもとしてくださったのです。奴隷は主人に捨てられるのではないかといつもびくびくしています。しかし、子は親に捨てられるとの怖れはないのです。私たちは罪赦され、神の子どもとされたのです。天の父なる神は、神の子どもとされたクリスチャンを失敗や弱さのゆえに捨てられることは決してありません。ですから私たちは神の裁きを怖れることはありません。いま一つは畏敬の念としての「畏れ」です。こちらの畏れが第三戒で教えられていることです。神が創造者・主権者であられるゆえに畏れ敬います。神が罪を全く赦してくださった驚きと感謝から畏れ敬います。(詩篇130:4)

 

「主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。(v7)」神の警告です。神への畏敬を失うことが多いためです。いつの間にか自分を人生の主のようにして生き、苛立ち、焦り、思い煩い、人に仕える心を失ってしまいます。神の警告のご意図は、裁きではなく、礼拝の心を取り戻させ、私たちを神の祝福の内の歩ませようとする愛の招きです。

 

私たちは、どこまでも、主であられ、私たちの神であられる生けるまことの神を畏れ敬う教会でありたいと願います。主がお招きくださり、礼拝に出ておりますが、主なる神の臨在に感謝し、畏れ敬う心をもってひれ伏す教会でありたいと願います。信仰生活が長くなったとしても、日々新しく、主であられ、私たちの神であられる生ける神を畏れ敬う信仰者でありたいと願います。主を畏れ敬う私たちは、素晴らしい神の祝福と神の喜びの内を歩んでいくことができるのです。