聖書メッセージ『性を聖とする』(出エジプト記20:14 )

聖書箇所 出エジプト記20:14

20:14 姦淫してはならない。

 

説教要旨

「結婚」について考える時に創世記1章と2章の御言葉に聴くことが大切なことでしょう。人は神の前にひれ伏し神の言葉に聴き神に祈る神との交わりの存在です。また人は互いに交わる交わりの存在です。神は「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう(創世記2:18)」と仰せられました。「助け手」とは「補助者」との意味ではなく、「向かい合う者」「呼応者」との意味です。アダムにとって全人格的に応答する呼応者がエバでした。「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる(創世記2:24)」肉体的交わりを含みつつ、人格と生活のすべての領域における交わりを表しています。結婚した者にとっては、伴侶はすべての人間関係の交わりの中で最も中心的根源的全人格的交わりの相手です。

 

結婚の人格的交わりの中で、性的関係は人格的な交わりの一部であり、表れです。性的交わりは結婚関係の中でのみ神が夫婦に与えてくださっている祝福です。卑しきものではありません「姦淫してはならない(v14)」「姦淫する(v14)」とは、厳密には既婚の男女が配偶者以外の異性と性的関係を結ぶことです。独身の男女の性的関係については、律法の別の箇所で未婚の男性が未婚の女性と性的関係を結んだ場合には妻とするようにと教えています。(出エジプト記22:16他)それほど「結婚と性行為」は一つであることが示されています。新約時代に生きる私たちも既婚者は伴侶以外との性的関係を結ぶことはあってはならず、性的交わりは夫婦の間のみで許されています。結婚前の者は性が与えられていることを感謝し、性を聖く保ち、婚前交渉を避け、結婚を尊び待ちます。神は結婚の神聖さを守る祝福に私たちを生かそうとしているのです。どうして性を聖く保つことが夫婦関係の祝福となるのでしょうか。性が私たちの人格と密接に結びついているためです。(Ⅰコリント6:18)姦淫はただ性的罪ということではなく、夫婦の人格的関係を破壊するものです。ですから主イエスは「姦淫してはならない」を「姦淫の行為」に限らず「心の聖さ」として語られました。(マタイ5:27~28)しかし、私たちは結婚後も性的誘惑があります。魅力的な異性に目が惹かれ衝動的な思いとなります。そうした性欲的なことだけではなく、孤独を覚える時、伴侶から承認を受けていない時、精神的緊張を覚える時、性的誘惑に合い易いでしょう。誘惑に負けることがあります。性が自分中心的なものとなります。仮にそのような自分中心的な性の歩みをしても、真の喜びはなく罪悪感が残ります。戦いを覚えながら、性が聖く守られていくときに、結婚の神聖が守られ、夫婦の人格的交わりの祝福があり喜びがあるのです。

 

「姦淫してはならない」との戒めが心の情欲のことまでというときに自らの弱さや罪を覚えずにはおられないのではないでしょうか。この戒めを世の価値観の中で自ら引き下げ、そんなの無理だと端から諦めて罪に開き直る姿勢は、私たちの祝福に繋がりません。聖なる神と神の言葉の前に罪と戦い、自分の弱さを認め罪を罪と悲しみ、聖霊の満たしを切に求め歩んでいきます。その歩みに戦いの中で一つひとつ勝利が与えられ、祝福と真の喜びが備えられていくのです。しかし、なお私たちは思いや行為において主の前に相応しくない者です。でも、主イエスが姦淫の現場で捕えられた女性に仰せられた言葉を覚えたいのです。(ヨハネ8:11)主イエスは罪を曖昧にされませんでした。罪は罪です。しかし「罪に定めない」と仰せられました。イエス・キリストの十字架の身代わりの死の故です。そして「行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と新たに送り出されました。自分の力ではなく、神に聖さを求めます。性を聖とし夫婦の交わりの祝福と喜びの中に、そして性と結婚を尊び将来の結婚の祝福の中に生かされていきたいと願います。