聖書メッセージ『行為と言葉と思い』(出エジプト記20:15~17)

聖書箇所 出エジプト記20:15~17

20:15 盗んではならない。

20:16 あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。

20:17 あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。

 

説教要旨

第八戒「盗んではならない(v15)」隣人の財産の保護が教えられています。またこの戒めは労苦して働き、困っている人や弱さのある人を支えていく教えです。(出エジプト記22:25~27、23:10~11、エペソ4:28、使徒20:35)ともすればひたすら自分が受けることだけを求めて生きている私たちです。「してくれない」ではなく、「していく」歩みの喜びに生かされていくことを教えております。第九戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない(v16)」直接的には裁判の席で偽証を禁じています。また隣人について中傷や噂話をしてはならないことが語られています。(出エジプト記23:1)私たちは人が自分について噂や陰口をしているのを知ると深く痛み失意を抱くことを経験しながら、隣人について噂や陰口を語ってしまうのです。事実よりも幾倍にも増して強調したり、ある部分を歪めての言葉が語られます。しかし、神は私たちが祝福の中に生きるために噂や陰口をしてはならないとお語りになられています。ではどのような言葉を語り合うのでしょうか。相手の必要な時に相手が建て上げられる言葉を語り、励ましをもたらすのです。(エペソ4:29)

 

第十戒「あなたの隣人の家を欲してはならない…(v17)」自らに対する神の摂理や恵みを見上げるのではなく、自分が王座に座って隣人と比較し、羨み妬んでしまいます。反対の歩みは「感謝」です(コロサイ3:15)(Ⅰテモテ6:6)そして第十戒は第六戒~第九戒が単に目に見える外面的行為の戒めではなく心も含まれていることを明示し、また第十戒は行為や言葉の根は心であることを示しています。主イエスは十戒で取り上げられている殺人、姦淫、盗み、偽証は「心から出て来る(マタイ15:20)」と仰せられました。

 

隣人を建て上げる行為をなし言葉を語るために心が聖められていく必要があるのです。救いをいただいたクリスチャンに十戒が語られ、気づいていない罪や曖昧にしている罪が示されます。痛みます。罪を見たくありません。いいえ、罪を見ない。十戒が語られても端から出来っこないとの聴き方もあるでしょう。でも、そこには聖めと幸いはありません。闇の中では闇の中にいることが分かりません。御言葉の光に照らされると自らの罪の闇の深さが見えます。律法により罪が明らかにされることは幸いです。(ローマ7:24)神は私たちを裁くために十戒を語られているのではありません。神はクリスチャンである私たちに自分の真の姿を示し、悔い改めへと導き、キリストの十字架の救いに立たせ、聖霊に拠りすがり、深く造り変えるために十戒をお語りくださるのです。神は律法が語られ、罪の弱さを覚える私たちに「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である(v2)」と変わらずにともにおられ、救い出し続けてくださるのです。どうでしょうか。私たちは自分の弱さが出た時に人が自分から離れていく経験をすることがあるのではないでしょうか。いいえ、私自身が人の弱さと出くわした時に、例えば人が自分への噂や非難をしているのを聴いた時に、その人がどれほどこれまで自分を支えてくれていたかを全て見失い、その一つの事だけを取り上げ、隣人に対する思いが昨日とは全く異なってしまう自らの愛の不安定さと弱さを覚えるのではないでしょうか。私たち人間は変わります。しかし、私たちを造り贖ってくださった神は、私たちを愛し私たちの罪の身代わりに十字架で死なれよみがえってくださったイエス・キリストは変わりません。罪に嘆く私たちに主イエスは仰せられています。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」主イエスに罪があるままで行き、罪の重荷を下ろし、拠り頼んでいくときに、私たちの心に安らぎが与えられます。その安らかにされた心が安らかな言葉、仕えていく行為をもたらしていくのです。