聖書メッセージ『神の栄光を現す』(Ⅰコリント6:20)

聖書箇所 Ⅰコリント書6:20

6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

 

説教要旨

成長祝福式を覚えつつ御言葉に聴いて参ります。第一コリント人への手紙はパウロがギリシャ地方のコリントに建てられた教会に向けて記したものです。紀元55年頃に記されたと考えられています。コリントは地中海における貿易の要所で、ギリシャ人だけではなく様々な人種でごった返す国際都市であり、大変繁栄していました。人々はギリシャ哲学が示すように知的なものに飢え議論に明け暮れ、また二年毎に「コリント地峡競技会」が開かれていました。そのような大都市コリントにイエス・キリストの救いが宣べ伝えられ、教会が建てられ成長していきましたが、コリント教会は幾つかの問題を抱えていました。その一つに性の乱れがありました。当時コリントの人々において当然のように行われていた遊女と交わる不品行の罪が教会内にも入り込んでいました。パウロは「淫らな行いを避けなさい(v18)」と記し、さらにそういった消極的な教えに留まらず、積極的・根本的教えを記しました。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(v20)」「代価を払って買い取られた(v20)」とは、当時借金を返すことができず奴隷となった者を親族が代価を払い奴隷から解放することが行われていましたが、それが造り主なる神と人間の関係において行われたというのです。どういうことでしょうか。神はご自身に背く私たちをそれでも愛し、私たちの罪を赦し、ご自身のものとするために独り子イエス・キリストを贖いの代価として遣わしてくださり、十字架におかけになられたのです。人は何か良い行ないをして神に罪赦され受け入れられるのではなく、救い主イエス・キリストを信頼する信仰によってすべての罪が赦され、神のものとされ、神との交わりをもって生きる者とされるのです。神は私たちが救い主イエス・キリストを信じ罪赦され神のものとされることを願っておられます。親が迷子になった子を必死に探すように、探しておられます。私たちの心の戸をノックしておられます。イエス・キリストを信じ、神の救いを受け入れていただきたいと願います。

 

パウロは、コリント教会の者たちがイエス・キリストを信じ、もはや自分自身のものではなく、神のものとされたと告げました。そして続けました。「ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい(v20)」「からだ(v20)」とは、単に肉体ということだけではなく、「一つひとつの歩み、行動」です。「神の栄光を現す(v20)」とは、神の素晴らしさを現すということです。自分の思いのままに体を使い、自分の思いのままに歩むのではなく、私たちのからだ(歩み)をもって、神を崇め、神の御心に従い、神の素晴らしさを現すことが命じられています。神の栄光を現す歩みは真の喜びと平安があり、真に幸いな生涯が与えられていくのです。ですから、私たちは子どもたちの真の祝福を願い、心身の成長の祝福を祈るだけではなく、それらを祈ることの前に神を知り、神の栄光を現す歩みを心から願い祈ります。そして私たちは神の栄光を現すという時に「立派な歩みをする」「成果を上げる」「注目されるようなことを行う」ことをイメージするかもしれません。コリント大都市は、そのような知者や身分の高い者たちが多くいました。またコリント地峡競技会が行われ肉体美や強さを競い合っていました。しかし、そういう中でパウロは「からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです(Ⅰコリント12:2)」と告げ、肉体の弱さを覚え回復を願う自らに神が「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである(Ⅱコリント12:9)」と語られた言葉を記しています。神の栄光は、それぞれに与えられたからだにおいて、そこには肉体的弱さがあったり、自分が願ったような状況とは異なる苦しみの中で、神のものとして、神に従い歩んでいくところに現れるのです。