聖書メッセージ『わたしは背負う』(イザヤ46:1~4)

聖書箇所 イザヤ46:1~4

46:1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの像は獣と家畜に載せられる。あなたがたの荷物は、疲れた動物の重荷となって運ばれる。

46:2 彼らはともにかがみ、ひざまずく。重荷を解くこともできず、自分自身も捕らわれの身となって行く。

46:3 ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。

46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。

 

説教要旨

「ベルはひざまずき、ネボはかがむ(v1)」「ベル」「ネボ」は捕囚の地、バビロニアの神々です。「ベル」は「農耕の神」、「ネボ」は「学問の神、科学の神」でした。バビロニアは数学や天文学が発展した古代オリエント文明の中心地でした。イザヤは、やがてバビロニアがペルシャのクロス王によって滅ぼされることを告げつつ、バビロニアの神々「ベル」や「ネボ」は何の力も無く倒れ、その像は家畜に載せられ、バビロニアの人々の重荷となって運ばれることを語っています。無力な理由は人間が作った神々であったからです。助けを叫んでも答えないのです。(v6~v7)

 

バビロニアの神々とは対照的に、真の神は「わたしは背負う(v4)」と語られました。人を造られ、人を背負い、御業をなされる神です。聖書は、主がともにおられるということを幾つかのイメージで示しています。一つは、私たちの先に立って歩むです。いま一つは、私たちを背負うです。(申命記1:31、32:11、イザヤ40:11)「背負う(v4)」とは、どういうことでしょうか。すべてを引き受け導くことです。神は傍観者ではあられません。解説者ではあられません。私たちを引き受け導いてくださるのです。それは、私たちのすべての生涯の日においてです。(v3)(v4)(詩篇68:19)主はこれまでも私たちを背負ってきてくださいました。主イエスは私たちの罪を背負い身代わりに神の裁きを受け贖ってくださいました。(イザヤ53:4)今も今日も神は私たちを背負ってくださっておられます。明日も将来も終わりまで主は背負ってくださいます。「年をとっても(v4)」「白髪になっても(v4)」白髪は老人の特徴です。体力は衰えます。共同社会においても疎んじられ易くなります。しかし、神は弱くなっても、人に顧みられなくなっても変わらずに背負い導いてくださいます。「わたしは」「わたしは」と繰り返しておられます。(v4)このわたしは、このわたしこそがこれまでもあなたを背負い、今も背負い、明日も背負うと語られています。どこに向かって背負ってくださっているのでしょうか。「わたしの計画は成就し(v10)」「イスラエルにわたしの栄えを与える(v13)」神の救いのご計画がなされ、神の栄光がほめたたえられることへと私たちを背負い導いてくださるのです。主の守りがあります。しかし、ただ私たちがこの世の中で何の苦しみもなく、何の重荷もなく、自分の願ったようになることへと背負うとの約束ではありません。神は私たちが聖められ、神に近づけられ、神の栄光が現されていくことへと私たちを導かれていくのです。(ローマ8:28~30)「遠くなく(v13)」「遅れることがない(v13)」神の栄光が現される救いの御業は神の最善の時に必ずなされていくのです。

 

神は「ヤコブの家よ、わたしに聞け(v3)」と語られています。「わたしは背負う(v4)」との神の言葉に聞けと。わたしに信頼せよと語られています。何となく信頼して歩むのではなく、「信頼します」とするのです。(v8)私たちは、当時のバビロニアがそうであったように富を中心とした世、人間の知恵を土台とした世に置かれています。その中で「わたしは背負う」との神の約束を見失い、ひたすら目に見える富を拠り所とし第一としてしまうことがあります。「わたしは背負う」との神を見失って、ひたすら人間の知恵のみに拠り頼み判断し歩んでしまうことがあります。「わたしは背負う」との神の約束に頑なになっていることがあります。神はその私たちに「わたしは背負う」と、これまでもそうしてきたし、今もそうしているし、明日も終わりまでそうすると語っておられます。「思い出し、勇み立て。背く者たちよ、心に思い返せ(v8)」「わたしに聞け、頑なな者たちよ(v12)」と繰り返し立ち返りを迫っておられます。悔い改めてご自身に信頼せよと語っておられます。正直に神に助けを求め歩んでいくことを求めておられます。(v7)「わたしは背負う」昨日も今日も明日も、そしてどんなに弱くとも背負って運んでくださる主を前にしております。主に自らをお委ねしましょう。