聖書メッセージ『わたしは新しく創造する』(イザヤ65:16~20)

聖書箇所 イザヤ65:16~20

65:16 この地で祝福される者はまことの神によって祝福され、この地で誓う者はまことの神によって誓う。かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。

65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。

65:18 だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。

65:19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。

65:20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。

 

説教要旨

「主を前にしています(詩篇16:8)」その主とは私たちに「救いの完成を与えてくださるお方」として私たちの前におられます。「かつての苦難は忘れられ(v16)」罪、罪故の苦しみ、そして苦しみの世界が全く過ぎ去ると告げられています。それは、神は「わたしは新しい天と新しい地を創造する(v17)」からと仰せられました。「新しい天と新しい地(v17)」とは「救いの完成」を表しています。天地万物を創造された神は、全く新しい天と新しい地を創造すると語られたのです。神はこの世界を創造され、非常に良かったとされました。しかし、人間は神に背き、罪が世界に入り、私たちは罪人として生まれ、この世界は罪に支配され、様々な悲しみや苦しみがあります。しかし、神は独り子イエス・キリストを救い主としてこの世に遣わし、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりに十字架に架かり神の裁きを受け死なれ、死に打ち勝ち復活されました。イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪の世に神の国(神の救いの支配)が始まったのです。でも、救いは完成していません。なお悲しみがあり、なお苦しみがあり、私たちの内にも罪が残っています。しかし、イエス・キリストが再びこの地に来られたとき、救いは完成し、世界は全く新しくされるのです。それはまさに「シャローム」です。神は天地を全く新しくされ、人間の罪によって隔てられていた神の恵みがどこにも損なわれることなく、遮られることなく、万物の隅々にまで至ります。(ヨハネ黙示録22:21)

 

救いの完成における重要な事柄は、神と神の民の関係です。「わたしは…わたしの民を楽しむ(v18)」(ヨハネ黙示録21:3)救いの完成の中心は「わたしはあなたがたの神、あなたがたはわたしの民となる」ことです。神との全き交わりです。私たちは神と顔と顔を合わせ見ることになります。今神に完全に知られているのと同じように私たちも完全に神を知るのです。(Ⅰコリント13:12)赦せないとか、怒ってしまうとか、妬んでしまうとか、そんなものは全くないのです。罪からの全き自由が与えられます。何という幸いでしょうか。この救いの完成、新天新地を待ち望んでいきます。しかし、救いの完成の恵みは将来のみに与えられるのではありません。神の国はすでにイエスさまの十字架と復活によって始められたのです。今すでに神は救いの完成の前味に私たちを与らせてくださっているのです。「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています(Ⅱコリント4:16)」外なる人は私たちの肉体や心です。私たちの肉体は衰えます。世の苦しみの中で心が弱ります。でも、内なる人、イエス・キリストにある新しいいのちは一日そして一日新しくされ続けております。それは私たちがなすことではなく、「わたしは創造する(v17)」と神ご自身が今日というこの日に新しい創造をもたらし、背負ってくださっておられ、救いの完成へとお導きくださっておられるのです。私たちは状況は厳しいのに平安ということがあるのではないでしょうか。(ヨハネ14:27)心身は疲れ果て、でも主の前に出る時に新しい力を得て鷲のように翼をかって上ることができるということがあるのではないでしょうか。(イザヤ40:31)

 

「わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ(v18)」私たちは神の救いの御業を楽しみ喜ぶのです。罪と戦わないわけではありません。罪と戦い、弱さを覚え、罪を嘆きます。しかし、自らの罪ばかりを見て、「自分は駄目だ、駄目だ」ではなく、弱さが出たならば、神さまに正直にごめんなさいをし、でも、神の救いの御業を喜び楽しむのです。主を喜ぶことこそが私たちの力です。

 

一日一日私たちを新しくし、救いの完成に至らせてくださる主を前にしています。主の救いの恵みに与り、外なる人は衰えても、内なる人は新しくされ続けていく祝福の中を歩んでいきましょう。救いの完成に望みを確かに置いて、今日というこの日、主を喜び歩んでいきましょう。