聖書メッセージ『主が戦われる』(Ⅰサムエル記17:34~40)

聖書箇所 Ⅰサムエル記17:34~40

17:34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、

17:35 しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。

17:36 しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」

17:37 そして、ダビデは言った。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった【主】は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。【主】がおまえとともにいてくださるように。」

17:38 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着けさせた。頭に青銅のかぶとをかぶらせて、それから身によろいを着けさせたのである。

17:39 ダビデは、そのよろいの上にサウルの剣を帯びた。慣れていなかったので、ためしに歩いてみた。ダビデはサウルに言った。「これらのものを着けては、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれを脱いだ。

17:40 そして自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んで、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にし、そのペリシテ人に近づいて行った。

 

説教要旨

本日の御言葉は、ダビデがペリシテ人の巨人ゴリヤテに立ち向かい勝利を得た箇所です。イスラエルの民はペリシテ人と対峙しました。ペリシテ人の代表戦士ゴリヤテは「一騎打ち」を提案し、イスラエルの民をバカにしました。その愚弄が四十日間続きました。(v16)サウル王をはじめイスラエルの民は誰一人戦いに手を挙げず、愚弄する言葉を聞き(v11)、ゴリヤテの姿を見(v24)、非常に恐れていました。そういう中で、ダビデは父エッサイに頼まれ、戦場にいた兄たちに食事を届け兄たちの様子を確認するために行き、イスラエルの民を愚弄するゴリヤテの言葉を耳にしたのです。(v23)ダビデはただ敵国ペリシテ人と戦うとはしませんでした。富や王の娘と結婚し良き地位を得るために戦おうとしたのでもありませんでした。戦おうとしたのは、生ける神の陣をそしる(v26)、即ち神がそしられることに対しての聖なる怒りからでした。後に「すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう(v46)」と告げていますが、真の神の栄光を現すためでした。私たちは日々の生活や働きをなしていますが、それはただ目の前の仕事をなし、目の前の家事をなしているのではありません。富のためになし、自分のためになしているのでもありません。そこにおいて主が崇められ、天の御国が拡げられ、主の御心のためになしているのです。主の業であるのです。

 

では、私たちが主の業をなしていることにおいて、主はどのようなお方でしょうか。「この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。(v47)」一騎打ちでした。ダビデは独りでした。兄たちからは辛辣な言葉を受けていました。しかし、ダビデは羊飼いの経験から知っていました。主が行ってともに戦ってくださり、力を与え、勝利させてくださることを。主は私たちとともにおられます。眺めておられるのではありません。ただ愛してくださっているのではありません。ともに行って戦ってくださるのです。主イエスはゲッセマネの祈りを終え、捕えに来た者たちが近づいてきた時、弟子たちに「さあ、行こう(マタイ26:46)」と仰せられました。「行きなさい(v37)」ではありません。主イエスはユダに裏切られ、弟子たちに逃げられ、ペテロにご自身との関係を否定される中で独り十字架の道を歩まれ、十字架にお架かりになられました。肉体的には十字架で激しい痛みを負われ、精神的には人々から蔑まれ、何よりも霊的に神から捨てられて罪と戦い救いの御業を成し遂げてくださいました。その主イエスが私たちとともに行って戦ってくださっておられます。「主の戦い」であるのです。独りではありません。主が戦われているのです。その主はすでに十字架の死と復活により罪に勝利されたお方であるのです。

 

サウル王は「主がおまえとともにいてくださいますように(v37)」と告げ、ダビデにゴリヤテとの戦いを許可しました。しかし「主が」と告げたサウル王が真っ先にしたことは、自分の武具をダビデに着けさせることでした。(v38)ゴリヤテと同じように武具を身につけさせました。しかし、ダビデは「それを脱いだ(v39)」のです。単に慣れた格好になったというのではなく、武器ではなく主の御名によって戦う信仰の表れでした。(v45)戦ってくださる主に結びつけられてということです。主に信頼し祈り戦ったのです。祈りとは主に結びつけられることです。主日礼拝は主がともに戦ってくださっておられることを私たちに思い起こさせます。祈りによって主イエスに結ばれていく歩みは日々の積み重ねです。ダビデはゴリヤテとの戦いで初めて主の御名に拠り頼んだのではありません。日々の羊飼いの働きの中で主に結びついていた歩みが、急の戦いの中で、主への信仰を働かせ、勝利を得ていったのです。主が戦っておられます。独りではありません。日々の務めや教会の奉仕において主の名を呼び、力を受け、罪に勝利し、主の御名が崇められる歩みへと導かれていきましょう。