聖書メッセージ『キリストの復活』(Ⅰコリント15:17~22)

聖書箇所 Ⅰコリント15:17~22

15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。

15:18 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。

15:19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。

15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

15:21 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。

15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。

 

説教要旨

本日はイースター礼拝です。イースターとはイエス・キリストがよみがえられたことをお祝いする日です。しかし、ただイエス・キリストが復活されました、お祝いしましょうということではなく、この世界に本当に大きな大きな唯一無二の出来事が起きたのです。神が救いの御業を成し遂げられたことが明らかにされたのです。イエス・キリストは本当に復活されたのかということは限りなく大切なことです。キリストの復活を信じる根拠はあるのでしょうか。闇雲に信じなければならないのでしょうか。キリストの復活を信じる根拠は、弟子たちを全く変えたこと、イエスの亡骸をローマ帝国もユダヤ指導者たちも公に提示できなかったこと、教会が二千年間存在すること等が挙げられるでしょう。Ⅰコリント15章で言うならば次のことです。この手紙は紀元55年頃に記されました。キリストの復活から二十年程で記されています。ですから手紙が記された時、復活されたイエスに直接会った人も健在でした。(v6)コリント教会で問題となっていたことは、キリストが復活されたかどうかということではなく、自分たちの復活に関してでした。キリストの復活は当然のこととしてコリント教会内で受け入れられていたのです。それは目撃者が彼らの中にいた、又は彼らが目撃者を直接知っていたからでしょう。イエス・キリストは十字架で死なれ、葬られましたが、確かに三日目によみがえられたのです。

 

では、イエス・キリストの復活は、私たちに何をもたらしたのでしょうか。「そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます(v17)」キリストの十字架の死が罪の救いの御業を成し遂げたものであることは、キリストがよみがえられたことにかかっています。もし復活がなければイエスは自分を神の子と妄想した人に過ぎません。もし復活がなければイエスの十字架の死は支配国ローマに反逆した者の死と見なされ、ユダヤ人にしてみれば神にのろわれ神に捨てられた死に過ぎませんでした。しかしイエス・キリストが復活されたことは、イエスは神の子であり、十字架の死によって救いの御業が成し遂げられたことが確証されました。「よみがえられた」はいずれも受動態で記されています。神がイエス・キリストをよみがえらせたのです。罪から来る報酬(罪の罰)は死です。しかし、神がイエス・キリストをよみがえらせたということは、キリストが私たちの罪をその身に負われ神に裁かれ、神は宥めのささげ物としてのイエスを受け入れられ、裁きが終わったこと、罪の罰が終わったことが示されています。即ち、イエスの復活は、神が救いの御業を成し遂げられたことの証拠でした。それゆえに、私たちの罪は神の前に完全に赦されたのです。過去の大きな失敗も、今悩まされている罪も、昨日の罪も、キリストにある者は完全に罪赦されております。そして罪の支配から解放されており、新しいいのちをいただいており、イエス・キリストに似る者へとの造り変えが始まっているのです。何と感謝なことでしょうか。何という喜びでしょうか。

 

また、イエス・キリストの復活は、私たちの復活の保証です。(v20~v22)人は神に背いたゆえに肉体の死が入り、ちりに帰る者となりました。しかし、キリストは復活されたので、イエス・キリストに信仰を通して結び合わされた者は、死で終わりではなく、神が住まう天の御国へ入れられ、終わりの時には罪から完全に解放された栄光の体に復活せられるのです。気休めではありません。イエス・キリストが復活されたからです。イエス・キリストは私たちの復活の初穂としてよみがえられました。そして、罪の赦しと罪の支配からの解放が与えられた「喜び」と栄光の復活のからだへの「望み」は、私たちを大いなる深い喜びに満たし、日常の苦難や試練を根底で支え、家庭や職場や教会において主のわざに励む力を与えます。イエス・キリストがよみがえられたことを大いに喜びましょう。