聖書メッセージ『我がいのちの主』(Ⅱサムエル記6:12~19)

聖書箇所 Ⅱサムエル記6:12~19

6:12 「【主】が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された」という知らせがダビデ王にあった。ダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上げた。

6:13 【主】の箱を担ぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは、肥えた牛をいけにえとして献げた。

6:14 ダビデは、【主】の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。

6:15 ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、【主】の箱を運び上げた。

6:16 【主】の箱がダビデの町に入ろうとしていたとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろしていた。彼女はダビデ王が【主】の前で跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼を蔑んだ。

6:17 人々は【主】の箱を運び込んで、ダビデがそのために張った天幕の真ん中の定められた場所にそれを置いた。ダビデは【主】の前に、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げた。

6:18 ダビデは全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ終えて、万軍の【主】の御名によって民を祝福した。

6:19 そしてすべての民、イスラエルのすべての群衆に、男にも女にも、それぞれ、輪形パン一つ、なつめ椰子の菓子一つ、干しぶどうの菓子一つを分け与えた。民はみな、それぞれ自分の家に帰った。

 

説教要旨

命を追われ続けていたサウル王が死に、ダビデは王となり、エルサレムを都とし、まずユダのバアラから(エルサレム西約15km)神の箱をエルサレムに運び入れようとしました。神の箱とは、神の臨在を表しました。ダビデは王国を築くにあたり、主なる神を中心にしようとしたのです。ダビデは神の箱を移すにあたり、イスラエルの精鋭三万人を集めました。神の箱を運ぶための新しい荷車を用意しました。その新しい荷車を神の箱が長く保管されていたアビナタブの子孫ウザとアフヨが御しました。しかし、律法においては神の箱はレビ人が肩に担いで運ぶものとされていました。その結果、事件が起こりました。移動中、牛がよろめき、神の箱が荷車から落ちそうになり、ウザは神の箱に手を伸ばしつかみました。すると主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神はウザを打たれたのです。「その過ちのために(v7)」とあります。不敬の罪、長らく神の箱が家にあったためが主への畏れを失っていたのかもしれません。「ダビデの心は激した(v8)」ダビデは、主がウザを打たれたことを怒り不服に思いました。もう自分の町に神の箱を運びたくないと思い、オベデ・エドムの家に契約の箱を回しました。しかし、ダビデは三ヶ月の間この事件について思い巡らしたのでしょう。イスラエル王国を築くにあたり、主を中心にしようとして神の箱をエルサレムに設置しようとしました。しかし、本当の意味で主への畏れがあったのかと探られたのです。新しい荷車を用意し、レビ人ではなくアビナダブの子孫ウザとアフヨに御させました。うやうやしく見せ自分を王として誇る思いが働いたのかもしれません。ウザとアフヨが長い間神の箱があった家の子孫ということで温情が働いたのかもしれません。主を畏れることを第一としたものではありませんでした。主を中心とした国家を築こうとしながら、見栄えや人を第一とする自分の内側を探られたのです。主への真実な畏れから今度は律法に従ってレビ人に神の箱を担いで運ばせました。六歩進んだ時に、いけにえを献げ、力の限り跳ね回り主を喜んだのです。定められた律法にしたがって仕方なく形式的に守るというのではありませんでした。ご臨在され、祝福を与えようとしてくださっている主なる神を真に畏れ力の限り喜んだのです。「私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。(詩篇86:11)」

 

私たちは毎主日礼拝に出席しています。また日々祈っています。しかし、特に試練の出来事の中で新たに自分と主との関係が探られ、主への献身を新たにされることがあります。主を信じ従ってきた、でもいつのまにか主への真の畏れを失い、自分中心となっていたことに示されることがあります。主の恵みです。主を畏れるとは畏敬の念もありますが、それだけではありません。主が私たちを愛し、私たちの罪のために十字架に架かり死なれ、すべての罪を赦し、神の子どもとし、ともにいてくださる、その驚くべき主の憐れみと主の恵みを覚え主を喜ぶことです。

 

その献身の歩みを、ここでの妻ミカルのように妨げるものがあります。人から蔑まれる言葉や態度を受けることもあるでしょう。またそれだけではなく自分の内にも主への献身を妨げる力が働きます。自分を主に明け渡す怖れや自分の弱さを認め主にすがることをどこか恥じる思いとなることもあります。しかし、主イエスが私たちを愛し、私たちの罪のために苦しまれ、忍ばれ死なれ、死の中から復活されともにいてくださることへの感謝の中で「もっと卑しめられ(v22)」とますます身を低くし主を畏れ喜び、主を第一としていきましょう。その歩みに主は祝福を備えてくださいます。今週もなすべき務めがあります。苦しんでいる状況があります。人への心遣いがあります。しかし、主を畏れ喜んいく私たちに、主は今日も「大丈夫だ」と約束してくださっておられます。ダビデと同様に祈りましょう。「私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。(詩篇86:11)」