聖書メッセージ『静まりの祈り』(マルコ1:35~39)   

聖書箇所  マルコ1:35~39

1:35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。

1:36 すると、シモンとその仲間たちがイエスの後を追って来て、

1:37 彼を見つけ、「皆があなたを捜しています」と言った。

1:38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」

1:39 こうしてイエスは、ガリラヤ全域にわたって、彼らの会堂で宣べ伝え、悪霊を追い出しておられた。

 

説教要旨

マルコ1:21~39は、主イエスのガリラヤ地方カペナウムの町における一日が示されております。v21~v22:安息日に会堂に入って教えられました。人を罪の中から神の愛の交わりの中へと移す「神の国の福音」を宣べ伝え教えられたのです。v23~v26:会堂に汚れた霊に支配された人がいて、主イエスはその人を汚れた霊から解放されました。v29~v31:会堂を出てペテロとアンデレの家に入り、ペテロの姑の熱をお癒しになられました。v32~v34:安息日が終わり、人々は病人や悪霊につかれた者たちを主イエスのもとに連れて来て、主イエスは彼らの病を癒され汚れた霊を追い出されました。そういう中で「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた(v35)」たまたま目が覚めたというのではなく、祈るために主イエスは朝早くまだ暗いうちに起きられたのです。人々から離れて(人々への働きから離れて)、弟子たちからも離れて独りになられました。父なる神との一対一の交わりを持っておられたのです。私たちも日々なすべき務めがあります。家族の求めがあります。しかし、そういう中にあって、ここで主イエスがなされたように、人や働きから離れて、父なる神と一対一の交わりを持っていく歩みをなしていきます。

 

主イエスは何のために朝早く起き父なる神との交わりを持とうとされたのでしょうか?はっきりと説明されていません。しかし、続く弟子たちの言葉と主イエスの言葉は、主イエスがここでどのような思いで、何のために父なる神と交わりを持とうとされたのかが示されております。(v36~v38)病人が癒され悪霊どもが追い出され、カペナウムの町中の人々が興奮し主イエスを捜していましいた。主イエスを奇跡を行う人、ミラクルワーカーのように持ち上げようとしていました。弟子たちも興奮していました。弟子たちは主イエスがこのカペナウムでもっと大きな奇跡の業をなすことを求めていました。「追って来て(v36)」との言葉は否定的な意味合いがあり、敵意を懐いて追いかけるとのニュアンスです。「群衆は大興奮しているのに、こんなところで何をしておられるのか」との思いで追って来たのです。主イエスはそんな弟子たちに「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。(v38)」と告げました。「カペナウム」に留まるのではなく、「近くにある別の町や村へ行く(v38)」ことを告げました。病人を癒し汚れた霊を追い出す奇跡を行うのではなく、「福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから(v38)」と告げました。即ち、主イエスが朝早く父なる神の前に独り出られたのは、父なる神の御旨を確認するためでした。私たちが静まるのは、父なる神の御旨に聴くためです。

 

父なる神の御前の静まりから生まれてくる祝福は何でしょうか?自分人の言葉に満ちた思いから神の御旨に気づかせていただくことです。いいえ、ただ父なる神の御旨を覚え気づかせていただくだけではなく、父なる神の御旨に従っていく力を受けることです。それはただ自分が御旨に従っていく力を受けることだけではなく、主イエスがここで「さあ、私たちは」と弟子たちをも神の国の祝福の中に迎え入れていったように、私たちの周りを、私たちの家族を、私たちの教会の交わりを神の国の祝福の中に導きれていく力が与えられていくのです。

 

今どこか空回りしているような思いはないでしょうか。確かに目の前の事柄が山積みとなっておれば、少しでも手を動かそうとします。御言葉に聴き祈っている時間がないとも思います。しかし主は私たちに語られています。「やめよ、わたしの前に出、わたしに聞きなさい」人や務めから暫し離れ、父なる神の前に独り静まり、神の御旨に合わせられ、御旨に従う力を受け、静まりの祈りの祝福の中を一日一日歩んでいきましょう。