聖書メッセージ『主よ 私を』(詩篇26:1~2)  

 

聖書箇所  詩篇26:1~2

<ダビデによる。>

26:1 【主】よ私を弁護してください。私は誠実に歩みよろめくことなく【主】に信頼しています。

26:2 【主】よ私を調べ試みてください。私の心の深みまで精錬してください。

 

説教要旨

新年あけましておめでとうございます。詩篇26篇はイスラエルの王ダビデの歌であると考えられています。この詩は神に自らの無実、自らの正しさを訴えている歌です。どのような状況に置かれていたのかははっきりとしたことは分かりません。敵国による攻撃があって大きな被害をもたらされていたときの歌ではないか、又は神を恐れない人々の中でダビデが中傷や誤解の中に置かれていたときの歌ではないかと考えられています。少なくとも知りうることは、ダビデは神の前に誠実に歩んできた、神に信頼し歩んできた、しかし苦しみに会い、苦しみの中に置かれていたということです。神が正しい裁きをなし、救ってください、助けてくださいと歌っています。「主よ 私を弁護してください(v1)」 「弁護する」とは、元々は「裁く」という言葉です。悪しき者たちを正しく罰し、自分を助け出してほしいと主の真実な守りを祈ったのです。自分がいかなる歩みをなしてきたかを告げています。「私は誠実に歩み よろめくことなく 主に信頼しています(v1)」「誠実(v1)」とは神に対して裏表がないこと、神に正直であること、神の御心に生きようとするひたむきさを表しています。そして、直訳は「私は 私の誠実の中に歩んできた」です。「私の誠実の中に」、罪が全くないというのではない、でも私のできる限りにおいて誠実に歩んできたのです。続いて私を調べてくださいと重ねて祈ったのです。(v2)

 

このように大胆に祈ることができた根拠は、どこにあったのでしょうか。一見、ダビデ自身の誠実さが主の裁きと主の守りを祈る根拠のように見えます。しかし「あなたの恵みは 私の目の前にあり あなたの真理のうちを 私は歩み続けました(v3)」詩人の誠実に歩んできたことの源は、自分ではなく、主の恵みでした。「恵み(ヘセド)」とは、一方的にそして一貫して愛する神の誠実な愛です。主の真実の守り、主の摂理の守りの根拠は、人間の誠実さによるのではなく、主の恵みによりました。主の憐れみによりました。主の守りはイエス・キリストが私たちを愛し、私たちの罪の身代わりに死なれ、私たちを赦してくださっている御恵みによります。神の恵みが私たちの目の前にあり、神の愛が私たちを取り囲んでいるのです。(ローマ8:34~39)

 

ダビデは恵みをもって守り導いてくださる弁護者なる主を前にして、v4~v11において、これまで自分はどう歩んできたか、そしてこれからどう歩んでいくかを歌っていきます。ダビデは、罪の歩みをしませんと述べています。(v4、v5)また、なお主とともに歩むとしています。(v6)(v8)主を畏れることなく歩み、手には悪事があり、右の手には賄賂が満ちている人々の中で、「しかし、私は 誠実に歩みます。私を贖い出してください。あわれんでください。(v11)」と。v11もv1と同様に、直訳は「私は 私の誠実に歩みます」自分のできる限りをもって誠実に歩んでいきますと新たに告白しています。私たちは主に信頼し主の前に誠実に歩んできた、にも関わらず苦しみに会うときに、どんな思いになり易いのでしょうか?意気消沈してしまう、主の前に誠実に歩むことが馬鹿馬鹿しくなってしまう状態になり易いのではないでしょうか。でも、その時に大事なことは、主は恵みによって正しく裁き守り助けてくださると信頼し、主の前に誠実に歩み続けることです。そうさせるのは何でしょうか?私たちの目の前にある「主の恵み」です。(v3)そういう中で、ダビデは安定した中に立っていったのです。(v12)

 

主は、ただただ恵みによってこの新しい2024年も私たちを主の守りの中に置いてくださいます。主の愛で取り囲んでくださいます。主の前に自分のできる限りの誠実さをもって歩んでいきたいと願います。そして、意気消沈する時に、主の恵みによって再び主の前に誠実に歩み続けていきたいと願います。