12月はクリスマス諸行事のため活動はお休みでしたので、11月の「みことばをわかちあう会」の恵みを、おわかちさせていただきます。
11月第3日曜日の礼拝後に、「みことばをわかちあう会」を持つことができました。
聖書の箇所は、マルコによる福音書6章で、内容が豊富だったので、「12弟子の派遣」を中心に学びました。
まず、1節~6節の教理におけるイエスの拒否の理由は、何だったのかという話になりました。
私たちは、「自分の知っていること」、いわゆる「常識の範囲内」でしか、物事を見ることができないからではないかという意見が出ました。
また、自分の常識で全能なる神を、小さく見過ぎてはいないか、これは無理だと最初からあきらめてしまってはいないかという反省の言葉も聞かれました。
同時に、自分のことをよく知っている家族伝道の難しさも話題に上がりました。
「12弟子の派遣」では、何故、2枚の下着を着てはいけないのか、1件の家にとどまらなければいけないのか」という問いが出ました。
昔のイスラエルの文化として、「下着を2枚着る」というのは、贅沢な人々の風習だったこと、また、「1件の家にとどまる」ということは、さらに良い待遇をしてくれる家を捜し歩いて渡り歩くなという意味合いがあるということでした。
一つの場所で、確実にその家に住んでいる人の魂を救いに導く努力をするようにという意味合いもあると思われます。
「足の裏の塵を払い落とす」とは、宣べ伝えても受け入れない魂には、私たちには責任がないということのしるしの行為であること、福音を受け入れるかどうかは、聖霊様のお働きによるのであって、私たちにゆだねられているのは、福音を宣べ伝えるという行為だけであること、結果は神様にゆだねればよいということも教えられました。
12人の弟子の伝道の効果が大きく、そのことがヘロデの耳にも入り、ヘロデは、イエス様を、自分が斬首したヨハネが生き返ったのだと恐れたという記録と、ヘロデによるヨハネの斬首の挿話が続きます。
ヘロデの愚かさと、私たちの中にもある、神を恐れない思いやおごりを、かえりみさせられました。
一人で読んでも気づかないたくさんのことに気づかされ、また、家族伝道の困難さなどを分かち合えたことは、大きな恵みでした。
次回は、6章の続きになります。またたくさんの恵みを受け取ることができることを期待しています。いつでもお声かけください。