聖書メッセージ『教会の姿』(使徒2:43~47)

聖書箇所  使徒2:43~47

2:43 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。

2:44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、

2:45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。

2:46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

2:47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。

 

説教要旨

使徒ペテロを通し語られた神の御業の言葉を受け入れた者たちは、洗礼を授けられ、初代教会が誕生しました。初代教会は「使徒たちの教え」「交わり」「聖餐」「祈り」に専念し続けていました。その教会はどのような姿、様子だったのでしょうか。「すべての人に恐れが生じ(v43)」教会に主への恐れがあったのです。何か神の奇跡的な出来事があり、それで教会に主への恐れが生じたのではありません。教会が使徒たちの教え、交わり、聖餐、祈りに専念し、それらを通し主イエス・キリストが十字架に架かり死なれ復活され罪を赦してくださった恵み、新しいいのちに与っている恵み、主がともにおられる恵みのゆえに、主の前にひれ伏す、そして主を喜ぶ主への畏れ、畏敬があったのです。また「恐れ(v43)」というのは、使徒の働きの5章で、少し異なるニュアンスでも使われています。アナニア・サッピラ夫妻が、土地を売って、代金の一部を自分のために取っておきましたが、土地を売ったすべての代金を献金したように偽りました。神はアナニア・サッピラを裁かれました。この出来事を通し教会に非常な恐れが生じました。(5:5、11)罪に対する神の裁きを怖れることも主を恐れることでえす。「主を恐れる」とは主を敬いおののく「畏怖」と言えるでしょう。そして「恐れが生じ(v43)」の「生じ(v43)」は継続を表す動詞の形です。ペンテコステの時だけではない、教会は主を恐れ続けたのです。(使徒9:31参照)そういう主を恐れる教会に「使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた(v43)」のです。神の救いの支配、神がともにおられることが目に見えるしるしをもってなされていったのです。逆ではありませんでした。見える神の業がなされて教会が主を恐れたのではありません。主を恐れ歩んでいた、そこに見える形をもって主の業がなされていったのです。

 

第二の教会の姿、様子はどのようなものだったのでしょうか。財産の共有がなされていました。財産や所有物を売って必要に応じて分配されていました。(v44~v45)しかし、それは5章のアナニア・サッピラ夫妻にペテロが「土地を売って代金をささげるかどうかは、自由である」と言っておりますが、強制的になされていたのではありませんでした。私有財産が認められていなかったのでもありませんでした。自分の財産に執着しない自由を得ていたのです。神が最終的拠り所であるということが生活の土台にあったのです。そして愛し合い仕え合って歩んでいたのです。教会が育まれていくことの中心は何でしょうか?私たちが聖化されていくことの中心は何でしょうか?愛に生きるようになっていくことです。ひたすら受けることを求める生き方から与え仕えていくことを喜びとする生き方に変えられていくことです。但し、私たちは「愛する」と一言で言っても、どれほど難しいか知っているでしょう。戦いを覚えているでしょう。聖書において「愛(アガペー)」は、私たちの性格とか、私たちの生まれ持ったものとか、自分の意志や力によってなすこととは一度も教えられていません。すべて神が与えてくださるものとして教えています。御霊の実です。聖霊が助けてくださるときに、私たちの弱さや罪の性質を越えた愛が備えられていくのです。

 

そのように教会が主を恐れ、主の恵みによって愛する者へと変えられていったときに、どうなったのでしょうか。「民全体から好意を持たれ(v47)」ました。好意とは尊敬されていたということです(5:13参照)。確かに私たちは世に生きながら神のものとして生きているので、理解してもらえないこともあります。でも基本的には、人々に信頼を持たれているのです。そうしてこう続いています。「主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった(v47)」「私たちが」ではなく、「主が」人々を教会に導き、救いへと導き入れ、教会の交わりに加えてくださったのです。

 

主は私たちとともにいてくださいます。主を恐れ、聖霊によって愛に生き、主が救われる人を起こしてくださる喜びの教会でありたいと願います。