聖書メッセージ『神のみわざのことば』(使徒2:22~24)

聖書箇所  使徒2:22~24

2:22 イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。

2:23 神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。

2:24 しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。

 

説教要旨

本日からは年間聖句の使徒2:41~42の一つひとつの言葉を掘り下げて見ていきます。「彼のことばを(v41)」とあります。使徒ペテロが人々に向けて語った言葉です。ペテロの説教はv14から記されています。聖霊が下り、弟子たちは色々な国の言葉で「神の大きなみわざ(v11)」を語りました。人々のうちには葡萄酒に酔っているのだと嘲る者たちもいました。(v13)ペテロは他の11人の使徒たちとともに立って、声を張り上げ人々に語りました。酒に酔っているのではなく、旧約聖書の預言者ヨエルの言葉を引用し終わりの時代に神が神の霊を注がれたのだと説きました。さらに「主の御名を呼び求める者はみな救われる(v22)」と説きました。そしてv22からはペテロの説教の中心部分となっています。「神は(v22)」と神がなしてくださったことを語りました。「ナザレ人イエスによって(v22)」とイエスについて語りました。イエスの不思議な業によって、神はイエスを神が遣わされた方であることを証しされたと語りました。続いて、イエスの十字架の死は神の計画によるものであると語りました。(v23)そして神は十字架で死なれたイエスをよみがえらせたことを語りました。さらに、復活されたイエスは「神の右に上げられ(v33)」、聖霊を御父から受けて自分たちに注いでくださったと語りました。(v33)そして今あなたがたがそれを見、聞いているのだと告げました。そして最終的に告げます。「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです(v36)」「主(v36)」とは「何にもまさって権威があるお方、力があるお方」ということです。「キリスト(v36)」とは「救い主」ということです。これはイエスが十字架で死なれ、復活され、天に昇られ初めて「主ともキリストともされた(v36)」ということではありません。イエスは生まれた時から「主」であり「キリスト」であられました。(ルカ2:11)神はイエスの十字架の死と復活によって、イエスが主である、救い主であることを明らかにされたということです。

 

これが使徒ペテロが語った言葉でした。「神」が主語でした。神は、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、救いの御業を成し遂げられたのです。神はイエス・キリストの十字架の死と復活によって救いの道を私たちに開いてくださったのです。イエス・キリストは、人間を罪から救うことができる力あるお方です。私たちに語られた言葉もこれです。神が成し遂げてくださった救いの御業です。イエス・キリストは私たちの罪を赦し、救うことができるお方です。人間がどうこうするということではありません。「福音」とは、良き知らせです。元々は戦いの勝利の知らせのことです。神がイエス・キリストの十字架の死と復活によって罪と死に勝利してくださった知らせです。神の勝利の宣言です。私たちの救い(罪の赦し、永遠のいのち)は、神にかかっているのです。

 

ですから、「主の御名を呼び求める者はみな救われる(v21)」のです。私たちは主の御名を呼んで救われたのです。罪赦されたのです。私たちが良い行いをなしたからでは決してありません。私たちは信仰生活をなしていく中で自分の弱さや罪の性質と向き合わせられることがあります。でも、私たちの救いは神の救いの御業、イエス・キリストの十字架の死と復活のみに基づいているのです。また私たちの聖めの土台も神にかかっているのです。(ガラテヤ3:2~3)ですから、私たちが最も大切にしなければならないことは、神の救いの御業に拠り頼んでいくこと、聖霊に拠り頼んでいくことです。

 

神の救いの御業に拠り頼み出発し生かされていく、どこまでもそういう教会の歩み、私たち一人ひとりの歩みであらせていただきたいと願います。救いも聖めも神にかかっているのですから、神に拠り頼み、ご聖霊から力をいただき喜びを得ていく私たちとしてこの週歩んでいきたいと願います。