聖書メッセージ『聖餐の制定』(ルカ22:7~13)

聖書箇所 ルカ22:7~13                   

22:7 過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。

22:8 イエスは、「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」と言って、ペテロとヨハネを遣わされた。

22:9 彼らがイエスに、「どこに用意しましょうか」と言うと、

22:10 イエスは言われた。「いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。

22:11 そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。

22:12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」

22:13 彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。

 

説教要旨

初代教会が専念していた三つ目は「パン裂き」「聖餐に与ること」でした(使徒2:42)。プロテスタント教会の「礼典」は「洗礼」と「聖餐」です。礼典とは、主イエスご自身が目に見えるものを用いて十字架の救いを私たちに表し、私たちのうちに確かなものとし、私たちの信仰を養うために制定されたものです。聖餐では主イエスの裂かれたからだを表す「パン」と流された血潮を表す「葡萄液」が用いられます。主イエスはご自分から「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい(v8)」と過越の祭りの準備を命じました。人々は子羊、苦菜、種なしパンを食べ、葡萄酒を飲んで過越の食事を守りました。また、これらの食事の準備の他に「部屋」を確保しなければなりませんでした。主イエスはペテロとヨハネを指定し遣わされ、水がめを運んでいる男性が入る家までついて行くように、そしてその家の主人は席が整っている二階の大広間を見せてくれると仰せられました。これは主イエスの予知能力が示されているのではなく、主イエスが用意周到に過越の食事を準備されたことが示されているのです。

 

主イエスは過越の祭りの食事を用意周到に準備されました。でも何か回りくどい感じがします。主イエスはこれこれの家のこの主人の部屋とは仰せられませんでした。弟子たちは連れられて行くまでどこに部屋が用意されているのかを知りませんでした。それはユダの裏切りを警戒してのことでした。人々が部屋に入る過越の食事の時こそ、ユダが群衆がいない時に主イエスを宗教指導者たちに引き渡す絶好のチャンスとなったからです。でも、なぜ主イエスはユダの裏切りを警戒されたのでしょうか。主イエスはすでに死を決意してエルサレムにやって来られました。この時点でユダの裏切りを警戒されたのは、ただご自身の身の安全のためではなかったはずです。何としてでも過越の食事を弟子たちと一緒に取ろうとされたためでした。そしてその過越の食事の席で主イエスは聖餐を制定されたのです。

 

聖餐(パン裂き)は、私たちに目に見える形をもってご自身が十字架で成し遂げられた救いを表し、私たちのうちに救いの祝福を確かなものとし、私たちの信仰を養います。主イエスは御言葉によって私たちに救いを表し、確かなものとし、信仰を養ってくださいます。しかし、それだけではなく、主イエスは目に見えることに左右されがちな私たちに救いをよりよく表し、確かなものとするために聖餐をお定めになられたのです。(ルカ24:30~31)聖餐制定の前後を見ますと、サタンの働きがあり、今後は信仰の戦いの時代が来ることを仰せられています。しかし、その中で主イエスはパンと葡萄液を見させ、食させ、私たちの信仰を支え強めようとしてくださったのです。聖餐制定にある主イエスの愛、ご配慮、何とか私たちをご自身への信頼に留めようとされる熱心を覚えるのです。それほどまでに主イエスは私をあなたを知り、愛してくださっておられるのです。

 

本日神の憐れみのゆえに聖餐の恵みに与ります。主イエスを信じて歩む歩みは祝福に満ちた喜びと平安のある道です。しかし、その素晴らしい主の救いから離れさせようとする絶えざる戦いのある道です。坂道です。でも、主イエスは私たちの弱さ、そして戦いの強さをご存知で聖餐を愛をもって制定してくださいました。罪の誘いを覚える中で、主が見えず明日への不安を覚える中で「わたしを覚えて」と私たちの信仰を養おうとしてくださる聖餐の恵みを受け、主イエスが私たちを愛してくださっておられる、主イエスが罪を赦しともに歩んでくださっておられるとの信頼に立たせていただきましょう。主イエスの愛と救いの祝福の中に留まり、救いの喜びの坂道を歩み続けていきたいと願います。