聖書メッセージ『聖霊に満たされて歩む』(エペソ5:18~21)

聖書箇所  エペソ5:18~21

5:18 また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。

5:19 詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。

5:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

5:21 キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。

 

説教要旨

「ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです(v18)」「放蕩(v18)」との言葉は文字通りには「救いようがない」という言葉です。自分自身を制御できないのです。自分を失っているのです。お酒を飲みお酒に酔い、この世の苦しみを紛らわしているような者たちがいたのでしょう。「むしろ、御霊に満たされなさい(v18)」お酒に酔うとはお酒に支配されていることです。聖霊に満たされるとは聖霊に支配されていることです。聖霊に導かれていることです。二人三脚のコツは、どちらが導き手であることを決め、導き手ではない方は導き手に合わせていくことだと言われます。聖霊に導かれていくのです。

 

お酒に酔うと放蕩がある。では聖霊に支配されての歩みはどのようなものでしょうか。パウロは「聖霊に満たされなさい(v18)」という動詞にかかる分詞で四つのことを記しております。第一に「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い(v19)」。主を賛美しつつ互いに語り合っている歩みです。自分の弱さ、抱えている重荷が語られ、そういう中でともに主を仰ぎ見ていくのです。第二に「主に向かって心から賛美し、歌いなさい(v19)」。主を賛美し、主に栄光が帰されていることを喜びとする歩みです。第三に「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい(v20)」。聖霊は、苦しみの中でイエス・キリストによって神の子どもとされており、父なる神さまの守りを思い起こさせてくださるのです。父なる神さまが私たちを愛していてくださり、良いお方であり、良いものを与えてくださるとの信頼を与えてくださるのです。この時もこの状況も神さまの御手の中にあり、父なる神はすべてのことを働かせて益としてくださることに立たせてくださるのです。第四に「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい(v21)」。「従う」との言葉は「下に+位置づける」との意味です。相手の下に身を置き敬い仕える歩みです。これら四つをまとめると、第二の「賛美」と第三の「感謝」は神に対するものです。第一の「語り合う」と第四の「仕え合う」は教会の兄弟姉妹に対するもの、さらに5章22節~6章9節までは、夫婦の関係、親子の関係、主人と奴隷の関係となっており置かれた場での隣人に対するものです。ですので、聖霊に導かれて歩むとは、何かすごい事、奇跡的な事を行っていく歩みというのではなく、日々の歩みの中で神への礼拝と互いの交わりが祝福されていく歩みです。私たちは主を賛美するのではなく、自分に栄光が帰されることや感謝されることを求め続け易い者です。神への信頼や感謝ではなく、恐れや思い煩いに満ちてしまいます。人に対して心を閉ざし、いつの間にか相手の上に立って考え言葉を出してしまいます。でも、そういう私たちなのですが、聖霊に導かれて歩むとき、神を崇め神に感謝していく歩み、隣人に心を開き仕える歩みへと導かれていくのです。聖霊に導かれていく歩みは、何と幸いな歩みなのでしょうか。

 

ですから、パウロは「御霊に満たされさない(v18)」と命じます。これは継続を表す動詞の形で「御霊に満たされ続けなさい」と。今の自分の主との関係と人との関係を注意深く見(v15)、聖霊が住んでおられることに信頼し、聖霊に繰り返し自らを委ねていくのです。失敗や弱さが出ることもあります。でも、変わらずに私たちの内におられる聖霊に信頼し導かれていくことに立ち返っていくのです。

 

年の後半を歩み出しおります。御言葉と祈りを大切にし、自分の状態を見、私たちの内に確かに聖霊に住んでくださっておられることに信頼し、導き手である聖霊に導かれて歩んでいきましょう。そこには神への賛美と感謝の歩み、隣人と交わり隣人に仕えていく歩みが一つまた一つと備えられていくのです。