聖書箇所 ヨハネ13:2~11
13:2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
13:3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
説教要旨
主イエスが弟子たちを「最後まで愛され(v1)」、なされたことは弟子たちの洗足でした。人の足を洗うことは当時最も身分の低い者の最も卑しい仕事でした。主イエスはまさにしもべとなられたのです。主イエスは弟子たちの汚れた足を一人ひとり洗われていかれました。弟子たちはあっけにとられていたことでしょう。ペテロまで来られると、ペテロは「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか(v6)」と尋ね、主イエスはこの洗足の行為は今は分からないが後に分かるようになると仰せられました。(v7)ペテロは主イエスに「決して私の足を洗わないでください(v8)」と告げると、主イエスは「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになる(v8)」と仰せられました。洗足は主イエスの十字架による贖い、罪の洗いきよめを表していました。イエス・キリストは十字架で死なれ、私たちの罪の赦しの御業を成し遂げてくださったのです。一人ひとりの足を洗われました。私のこびりつく罪を拭い去ってくださったのです。「全身がきよい(v10)」主イエスは私のすべての罪を赦し洗いきよめてくださったのです。
ペテロは願いました。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください(v9)」主イエスは言われました。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよい…(v10)」当時の慣習において友人宅に食事に出かける者は、各自の家で水浴してから出席しました。でも向かう途中で足が汚れました。これはクリスチャンの日々の罪の赦しが教えられています。私たちは確認したいのです。イエス・キリストを信じ洗礼を受けた時、神の前に全く罪赦されたのです。義と認められたのです。なので主イエスは「手も頭も洗う必要はない」と言われたのです。クリスチャンの歩みにおける罪咎によって私たちが洗礼を受け罪赦され義と認められた救いが失われることはないのです。義認の根拠はイエス・キリストの十字架の贖いの御業にかかっているからです。と同時に、大切なことは、クリスチャンは罪赦された者として日々罪の赦しを求め、絶えず新しいきよめを必要とするのです。それが『主の祈り』で「我らの罪を赦したまえ」と祈る祈りです。「天の父よ」とすでに呼ぶクリスチャンが日々の歩みにおける罪の赦しを祈る祈りです。心にあるままを、戦いの中にある罪をそのまま主の前に持っていくのです。その時に主はどうされるのでしょうか。その罪を赦しきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)主は 「またか」とは言わません。「なぜそんなに弱いのか」とは言われません。私たちを見捨てません。罪を悲しみ痛まれます。でも主イエスは赦しきよめ力づけお育み続けてくださるのです。「水浴(v10)」は「洗礼」、「足を洗う(v10」は「聖餐」を表すと教会は考えてきました。洗礼を受けたクリスチャンは、聖餐においてイエス・キリストの十字架の死による赦しに立ち返り、新しいきよめと力をいただいて歩んでいくのです。
主の十字架の死による全き罪の赦しと主が決して私たちを見捨てずきよめ続けてくださるのは、何故でしょうか。主イエスのご自分の者たちへの最後までの愛です。私たちに仕える愛です。私たちに仕えてくださらなければ、私たちの醜さのゆえに主イエスは十字架にお架かりになられることはなかったでしょう。悪に対し悪で応えては十字架の道をたどることはなかったでしょう。クリスチャンになってからの罪の弱さにもかかわらず、主イエスが愛想を尽かさず忍耐され期待されともに歩み続けてくださるのは私たちを最後の時まで極みまで愛し仕えてくださっているからです。あなたにです。私たちを愛し、十字架に架かりすべての罪を赦してくださった主イエスは日々ともにいてくださいます。「私はあなたとともにいたい」と主イエスに願い続け、この週も一日一日主イエスに新しいきよめをいただいて歩んでいきましょう。