聖書メッセージ

茨城県守谷市にある、守谷聖書教会の日曜日の礼拝のメッセージ(礼拝説教要旨)を掲載しています。聖書のことばがそれぞれの助けとなりますように。


守谷聖書教会歓迎礼拝説教要旨(敬老のお祝い)  2025/9/14

 

『慰めよ、慰めよ』(イザヤ40:1~2)                

 

聖書箇所  イザヤ40:1~2

40:1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──

40:2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。」

 

説教要旨

「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──(v1)」神は、預言者イザヤにエルサレム陥落とバビロニア捕囚の中で望みを失っているイスラエルの民に慰めのメッセージを語るよう仰せられました。ダビデによる王国の建国、ソロモン王による国の繁栄、国の分裂を経て紀元前722年にアッシリア帝国による北イスラエル王国の滅亡が起こりました。しかしその中でも南ユダ王国は首都エルサレムと神殿が守られていました。しかし紀元前586年にバビロニアにより不落と思われていたエルサレムと神殿が崩壊され、またバビロニアに捕囚として連行される恐ろしい出来事が起こったのです。それはイスラエルの民が神に背いたためでした。神は預言者を通して幾度もご自身に立ち返るように告げ、忍耐を重ねられましたが、それでも民は神に立ち返ることをせず、神はエルサレムを見捨てられたのでした。

 

しかし、神は懲らしめとしてエルサレムを裁かれたのであり、イスラエルの民への永遠の愛をお捨てになられたわけではありませんでした。神はここでイザヤを通して慰めをお語りになられたのです。「その苦役は終わり、その咎は償われている(v2)」バビロニア捕囚の終わりが語られました。「そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている(v2)」エルサレムに帰還し、主なる神との豊かな交わりに生きることができると語られました。(v10、v11)そしてこの神の救いの約束は必ず成るのだと告げました。(v8)しかし、人々は見える状況の中で神の慰めの約束を信頼することができませんでした。イザヤは神の約束が信頼に足ることを12節から民に力説しました。神は創造者であられ、権勢を誇っている王たちも儚い草花のようであり、神は小さなものまで漏れることなくお治めになられていると。それでも人々は思いました。「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている(v27)」しかし神は再びご自身が永遠の神、創造者、御力をもってこの世界をお治めになられている方であることを告げ、確かに人間は神のなさることをすべて見極めることができないが、神は人を顧み、人に新しい力を与えるお方であると告げました。(v28~v31)だから神の救いの約束は必ず成るとお語りになられました。

 

この神の慰めの約束が実現しました。バビロニア捕囚から約70年後、ペルシャ王クロスによってイスラエルの民の解放宣言がなされ、バビロニアからエルサレムに帰還することができました。そしてこの慰めの約束は究極においては神が救い主をお与えになられたことによって実現したのです。(イザヤ53章)神は救い主イエス・キリストを私たちと全く同じ人として遣わされ、御子を裁かれることを通し私たちの罪を赦し、神との豊かな交わりであるいのちを与えてくださいました。神に信頼して生きる者は新しく力を得るのです。鷲が翼をかって高く舞い上がるように、神の御力に支えられ、神の御力に引き上げられて歩んでいくことができるのです。本日敬老のお祝いを迎える方々の歩みを覚えさせていただくときに、神に見過ごされているとも思えるような試練の中で神の主権の前に身を低くし、神に信頼し、神の力に支えられて歩んで来られました。肉体と精神が元気であるとはどこか違う、魂が神の愛と力に満たされ支えられているお姿であることを覚えます。

 

神の御思いは溢れています。「慰めよ」「慰めよ」二度語られています。神はイエス・キリストの死により罪の赦しと永遠のいのちの御業を成し遂げてくださいました。この救いは私たちを真に慰め真に生かします。この慰めを手を広げて受け取り、罪の赦しを受け、永遠のいのちに生かされていただきたいと願います。クリスチャンは神に信頼し、神がくださる新しい力によってこの週も主に引き上げられ歩んでいきましょう。

 

守谷聖書教会礼拝説教要旨    2025/9/7

 

『なぜ泣いているのですか』(ヨハネ20:11~18)

  

聖書箇所   ヨハネ20:11~18

20:11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。

20:13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。

20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」

20:16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。

20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

 

説教要旨

マグダラのマリアは墓の外にたたずんで泣いていました。主イエスを十字架で失い、亡骸さえもどこかに行ってしまいました。悲しみに満ち、途方に暮れ、泣くことしかできませんでした。私たちもただ涙が出、望みを抱けない状況の中に置かれることがあります。頼りとしていた人を失う、信頼関係を失う、穏やかな日々を失う、健康を損なう…。マリアは“独り”でした。独り悲しみや苦しみの中に置かれるのです。

 

そんなマリアが独り泣きながら、墓の中を覗き込むと、二人の御使いがおりました。(v13)彼らは「女の方(v13)」と女性への一般的な呼びかけで呼び、「なぜ泣いているのですか(v13)」と悲しみの理由を問い問わせました。復活された主イエスも墓の外に立っていましたが、彼女は気づきませんでした。主イエスも「女の方」と呼び、涙の理由を問い問わせ、さらには「だれを捜しているのですか(v15)」との尋ねを加えました。主の復活を全く考えておらず、物体としての亡骸を失ったことを悲しんでいるマリアに「何を」ではなく、「だれを」と尋ね、ご自身の復活に気づかせようとされたのです。でもマリアの心の眼は閉ざされたままでした。(v15)主イエスはそうした彼女の名を呼ばれました。「マリア(v16)」マリアの悲しみをすべてご存知で、その悲しみと悲しみの根である主への不信頼から連れ出すようにして「名」を呼ばれたのです。彼女ははっと心の眼が開かれ、主イエスだと分かり、答えました。「ラボニ(v16)」マリアは喜び主イエスの足にすがりつきました。主イエスはしばらくして彼女に告げました。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです(v17)」マリアは主イエスを「先生」と呼びました(v16)。主イエスは十字架で死なれ、復活され、永遠のいのちをもたらす救いの御業を成し遂げられ、主イエスの御思いは天に昇り、聖霊を送られ、人々を「永遠のいのち」に与らせることでした。だからそれを妨げるようにして「すがりついていてはいけません(v17)」と仰せられたのです。マリアに、今までの「先生」という人間的な交わりではなく、聖霊を遣わし、永遠のいのちをもたらすことを教え、その永遠のいのちの交わりに与らせようとされたのです。「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します(10:3)」「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです(10:10)」「それぞれ名を呼んで(10:3)」です。ダビデは「主は私の羊飼い(詩篇23:1)」と「私の」と歌いました。主イエスは私のすべてを真にご存じで名を呼び、悲しみと不信頼から連れ出し、日々の歩みに助けを与え、聖霊によってこの世の苦しみの中で永遠のいのちに生かし続けてくださるのです。人は朽ちていきます。頼りとしていたものを失うこともあります。しかし、主イエスは朽ちないお方です。主イエスは死に打ち勝ち復活され、いのちの日の限り、そして死の時もともにおられ、天の御国に私を導き入れ、天の御国においては私の涙をことごとく拭い取ってくださるのです。(ヨハネ黙示録21:4)

 

主イエスは、いのちの主といのちにマリアを与らせ、そのいのちの主といのちを弟子たちに伝えるよう託されました。マリアは主の仰せの通りになしました。マリアは2節では弟子たちに「主の不在」を告げましたが、18節では「主が生きてともにおられること」を告げたのです。主イエスは、私たちにいのちの主の証しを託してくださっておられるのです。

 

「なぜ泣いているのですか」主イエスは私たちの涙を十分に知りつつ、ご自身が生きてともにおられることを語りかけ、その涙から連れ出そうと名を呼んでくださっておられ、いのちの道へと導き続けてくださっておられます。私の羊飼いである主イエスに感謝をささげ、主に信頼し、そしてその羊飼いなる主イエスの証しに生きていきたいと願います。

 


守谷聖書教会礼拝説教要旨    2025/8/31

 

『まだ理解せず』(ヨハネ20:1~10)                

 

聖書箇所  ヨハネ20:1~10

20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。

20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」

20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。

20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。

20:5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。

20:6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。

20:7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。

20:8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。

20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。

20:10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。

 

 

説教要旨

マグダラのマリアをはじめ女性たちが日曜日の早朝まだ暗いうちに主イエスが埋葬された墓にやって来ると、墓から石が取りのけられているのを見ました。(ギリシャ語ブレポー:目に入る)マリアは墓荒しにあったと思い、弟子たちにその旨を伝えました。ペテロとヨハネは墓に走って行き、ヨハネが先に着きました。足の速さや年齢を表しているのではないでしょう。主イエスを三度拒み、主イエスを十字架で失い、ユダヤ指導者たちを恐れるペテロの心の重さが表れていたのでしょう。ヨハネは先に着きましたが、身をかがめ、亜麻布が置いてあるのが見えましたが(ブレポー)、墓の中には入りませんでした。ペテロは遅れて来ると、墓に入り、同じく亜麻布が置いてあるのを見ました。(セオーレオー:探る)イエスの体を巻いていた亜麻布はそのまま置いてあり、イエスの死体がすっぽり抜けたままのようになっていました。墓荒らしではないとペテロは亜麻布を確かめ、思ったことでしょう。ヨハネも後に墓に入ってきて、その亜麻布を「見て(エイドン:肉眼で見る)、信じた(v8)」のです。ヨハネは恐らく「イエスはよみがえられた」と信じたのでしょう。でも確信までは至らなったようです。ペテロに何も話しておりません。(21:7参照)ペテロとヨハネは、聖書が約束していた神の贖いのご計画が成し遂げられることのしるしとして主イエスが復活しなければならないことをまだ理解しておらず、主イエスが復活されたとの信頼、また確信へとは至っていなかったのです。(v9)

 

そして自分たちのところへ帰っていきました。(v10)主イエスを捜し求めず、ただ自分たちの世界、恐れの中に戻っていったのです。(v19参照)一方、彼らとは対照的にマリアはそのところに泣きながらそのままいました。(v11)主イエスを捜したのです。「からだをかがめて墓の中をのぞき込み(v11)、御使いを見(v12、セオーレオー)、イエスを見ました。(v14、セオレオー)そして、復活の主イエスを見たのです。(v18、ホラオー:出会う、交わる)ヨハネは、自分は確かに先に墓に着き亜麻布が見えた、でもそれ以上は墓の中には進んで行かなかった、ペテロは心が重い中で墓に入り亜麻布を見て探り求めたが、自分はそうしなかった、そして亜麻布をこの目で見て復活が起きたかもしれないと思ったが確信には至らなかった、でもそれ以上留まって主を捜さずに自分たちのところへ帰ってしまった、そんな自らを言おうとしているのでしょう。

 

ここには私たちの信仰の在りようが教えられています。私たちは日常の歩みにおいて様々なことを経験します。小さなことから大きなことまで主がそこにはおられないような状況の中に置かれることがあります。自分の願いや計画とは違うような中に置かれることがしばしばあります。それを目にします。その状況が見えます。辛いことです。直ぐにでも解決を願います。しかし一向に苦しみや見える状況は変わらないのです。そういう中で私たちはどう歩むのでしょうか。目に入ってくるもの、見えるものを追っていき易い私たちですが、そうではない歩みが求められているのです。御言葉に聴き、御言葉に探り求めていくのです。泣きたいのに泣かず、分からないのに分かるようにするのではありません。聖書を開き、礼拝説教に聴き、「主よ、お語りください」と求め、「主よ、どういうことでしょうか」「何をお教えになろうとされているのでしょうか」と主に肉薄していくのです。その歩みに復活された主イエスは出会ってくださいます。気づきを与え、主の慰め、喜び、御力を与えてくださいます。見えてくるもの、見える状況の中でのこの週の歩みがあります。その中で御言葉に聴き、主と主の御心を切に求めていきましょう。主をより知っていく幸いの中に生かされていく9月でありたいと願います。

 


守谷聖書教会礼拝説教要旨    2025/8/24

 

『主イエスの葬り』(ヨハネ19:38~42)              

 

聖書箇所  ヨハネ19:38~42

19:38 その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。

19:39 以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。

19:40 彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。

19:41 イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。

19:42 その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。

 

説教要旨

主イエスは十字架に架かられ死なれました。当時のユダヤ社会において「木にかけられた者」は神に呪われた者の死であり、その亡骸は粗末に扱われました。そういう状況の中でアリマタヤのヨセフという人物が主イエスの亡骸の引き取りをピラトに願い出ました。またニコデモも埋葬のために沢山の量の高価な没薬と沈香を混ぜ合わせたものを持ってやって来ました。主イエスはユダヤ人の埋葬の習慣に従って香料と一緒に亜麻布で巻かれ、エルサレムの園のまだ誰も葬られたことのない新しい墓に葬られたのです。当時、誰しもがエルサレムに墓を持つことを切望していましたが、そうできた者は有力者のみでした。また園に葬られるのは王であったことを旧約聖書は告げます。そして誰も葬られたことがない新しい墓とは神の働きのために特別に取り分けられた墓を表しました。十字架に架けられた囚人が埋葬されるのとは天地の差でした。「名誉ある葬り」「王の葬り」でした。その王とはこの世の政治的王ではなく、人に罪の赦しと永遠のいのちをもたらす王でした。

 

主イエスが丁重に葬られるようになったのは、ヨセフとニコデモによりました。ヨセフはユダヤ最高議会の議員でした。ある時イエスの弟子となりましたが、ユダヤ人を恐れ、自分が弟子であることを隠し続けていました。ニコデモも同様でした。(ヨハネ12:42~43)しかし、そういう彼らが主イエスの十字架を見たのです。十字架を負っていかれるお姿、嘲られ、罵られ、そして渇き、しかし力強く「完了した」と叫ばれたお姿。彼らは十字架の死が贖罪の死であったとの理解はなかったでしょう。でも主イエスの十字架の死に神聖なものを感じたのではないでしょうか。そしてゼカリヤ書12章の預言通り、主イエスの弟子であることを隠してきた卑怯な自分の罪を悲しんだのでしょう。そしてどんなに議員の立場が危うくなろうとも押し出されて主イエスの弟子であることを公にし、埋葬を申し出、丁寧になしたのです。主イエスの十二弟子たちは引き取りに来ていないのです。十字架において神の贖いの業が成し遂げられ、ヨセフとニコデモは主イエスの十字架の死と聖霊によって新しくされ、人の栄誉よりも神の栄誉を求める者となっていったのです。

 

イエス・キリストの十字架の救い、そして聖霊は私たちを深く内から造り変えていきます。私たちは信仰と世の間で中途半端な態度を取ってしまうことがあります。クリスチャンであることを鮮明にできない弱さや痛みもあります。でも主イエスの十字架を見つめ、このお方と共に歩んでいくとき、聖霊の働きの中で主イエスの証人として変えられ、その御力に押し出され勇気をもって歩むことができるのです。命じられ自分でなすのではなく、押し出されていくのです。ですから主イエスの十字架のもとに立っていること、聖霊の働きに日々身を委ねていくことが私たちの信仰の歩みの土台、中心です。また私たちは家族の救いや信仰継承のことを祈っていますがその実が見えて来ないことがあります。また教会のある人を見て信仰が中途半端であるように見え、この世と同じような価値観や考え方のみで生きているように見え、裁いた目で見てしまうことがあります。でも、かつては自分自身が全くそう歩んでいました。でも、主がお育みくださった聖めの恵みを忘れて裁いてしまうのです。確かにヨハネ福音書9章には目の見えない人が主イエスの救いに与り即ユダヤ指導者を全く恐れなかったことが記されています。それと同時に同じヨハネ福音書はユダヤ人を恐れ主の弟子であったことを隠していたヨセフやニコデモが少しずつ変えられ、ある時に弟子たちも果たせなかったここぞの働きをなしたことを告げているのです。主は立たせてくださるのです。主は立たせてくださっているのです。それを信頼し、背後で祈り続けていく者でありたいと願います。

 


守谷聖書教会礼拝説教要旨    2025/8/17

 

『神の大きなみわざ』(ヨハネ19:28~37)             

 

聖書箇所  ヨハネ19:28~37

19:28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。

19:29 酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。

19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

19:31 その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た。

19:32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた一人目の者と、もう一人の者の脚を折った。

19:33 イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。

19:34 しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。

19:35 これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。

19:36 これらのことが起こったのは、「彼の骨は、一つも折られることはない」とある聖書が成就するためであり、

19:37 また聖書の別のところで、「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る」と言われているからである。

 

説教要旨

主イエスは十字架上でいよいよ御自身の終わりを覚えつつ、「わたしは渇く(v28)」と仰せられました。肉体的渇きであるとともに、神に裁かれ神との交わりを失う恐ろしき霊的渇きでした。主イエスが「渇く(v28)」と告げた時、兵士たちはイエスを嘲り、蔑む行為をなしました。酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付け、イエスの口もとに持っていきました。重さでたわみ、飲むことができるかできないかのところで面白がったのです。また、ぶどう酒は“酸い”ぶどう酒で、渇きを助長させました。人間の恐ろしいまでの「罪性」「罪の深さ」が示されています。しかし、主イエスはそういった恐ろしき人間の罪を完全に負い切られ、神の裁きを身代わりに受け通され、「完了した」と神の贖いの業を成し遂げられたのです。全人類の贖いの御業が成し遂げられたのです。

 

神の贖いの御業が完了したことのゆえに、イエス・キリストが人間にもたらしてくださったものがあったことが続いて示されていきます。ユダヤ指導者たちは律法に従い、翌日まで死体を十字架につけたままにしないようにするために足の骨を折って死を早め取り降ろしてほしいとピラトに願い出ました。(v31)兵士たちはイエスとともに十字架につけられた他の囚人たちの足の骨は折りましたが、主イエスのところに来ると、明らかにすでに死んでおり、骨を折ることはしませんでした。しかし兵士の一人は死を確認するためだったと思われますが、イエスの脇腹をやりで突き刺しました。主イエスの中から「血と水(v34)」が出て来ました。ヨハネは、この一連の出来事について、自らは目撃者であり、真実を語っていると告げ(v35)、それは「あなたがたも信じるようになるため(v35)」と強調しました。そして聖書の預言の成就であるとしました。(v36~v37)骨が折られなかったのは、イエスの義(詩篇34:19)とイエスが過ぎ越しの御業における子羊(出12:46、ヨハネ1:29)であることを示しました。主イエスは血を流し「罪の赦し」を私たちにもたらしてくださったのです。また、ヨハネは「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る(v37)」とのゼカリヤ書12:10の預言を挙げ、聖霊が降ること、また「罪と汚れのきよめの一つの泉が開かれる(ゼカリヤ書13:1)」ことが成就したとしました。主イエスは水、即ち「永遠のいのち」「聖霊」を私たちにもたらしてくださったのです。

 

主イエスの十字架の死により「罪の赦し」と「永遠のいのち」の救いの土台は据えられました。救いにおいて私たち人間の側から付け加えることは何一つないのです。イエス・キリストを救い主と信頼するとき、罪の赦しと永遠のいのちを受けるのです。そして、クリスチャンはこの完了した贖いの御業のゆえに罪の赦しを確信し、そして罪赦されたゆえに罪を離れ、罪と戦い、神の前に相応しくない思いや言葉や行為を正直に神に告白し、主の赦しの中を歩み続けていきます。また、開かれた「罪と汚れのきよめの泉」から、いのちの水を汲み続けていきます。「泉」ですから汲んでも尽きないのです。前回の箇所との兼ね合いから言うならば、ヨハネはマリアを引き取りましたが(v27)、主の教会に仕えていく力、弱さを覚える者や苦しむ者を負っていく愛と忍耐をいのちの泉から受け続けていくのです。私たちの信仰は充電式ではなく、絶えずコンセントにつながっている歩みです。

 

主イエスは大声で私たちを招かれています。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります(7:38~39)」神の贖いの御業によってもたらされた「罪の赦し」と「永遠のいのち」「聖霊」を受けていきたい、受け続けていきたいと願います。

 


守谷聖書教会歓迎礼拝説教要旨  2025/8/10

 

『世に神の愛は在るのか?』(創世記1:24~31)   斎藤成美師       

 

聖書箇所  創世記1:24~31

1:24 神は仰せられた。「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ。」すると、そのようになった。

1:25 神は、地の獣を種類ごとに、家畜を種類ごとに、地面を這うすべてのものを種類ごとに造られた。神はそれを良しと見られた。

1:26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」

1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。

1:30 また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。

1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 

説教要旨

先週は広島と長崎の原爆記念式典があった。今世界では戦争や殺し合いが展開している。また、自然災害(山火事、洪水、陥没など)で悩まされている。それでなくても、日々個人個人の事故、災難、試練で悩まされているのに。この世に神の愛は在るのか?と思わされる。

 

私達の住む地球の成立は「進化論」で説明され、それが真理のようになっている。しかし、聖書は「この地球の全て良いものは、神がお造りになられた」と強調され、聖書の最初に創世記という書物で説明されている。しかし、その地球に人間を通して罪が入り、全体が狂わされ、ものによってはその形さえ変えてしまった。しかし、そんな中でも、罪の中に居る私たちにも理解出来る部分がある。それが「自然界」である。

 

神は、全て必要なものを創造し、最後に人間を造られた。その事自体も神の愛の表れであるが、次の聖句に注目したい。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる」(創世記1章29、30節)。植物の種って、どうしてあんなに多いのだろう。それは、子孫繁栄の為と動物たちの食料の部分を植物が受け持つからだ。罪が入ってからは草を食べなくなった動物もいるが、基本は草食である。植物が動物に与えるように、神は制定された。「無償で与える」は「愛」である。すなわち、愛の神がお造りになった地球は愛に満ちていた。無から偶然に出来たのではない。愛の造り主を覚えて初めて納得が行くのである。

 

イエスさまは、スズメを例えにして話された。マタイ6:26、「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます」スズメが餓死した話はない。シナイ山は、茶褐色のいくつかの岩山で出来ていて、雨が降らないから植物が育たない。ところが鳥が飛んでいる。岩山の窪みに水がわずかに貯まりそこに僅かな草が生える。そしてタネを稔り、鳥に提供している。神の創造の原則が成立されている。

 

夏場に現れ、人にはうるさがられるセミは、主に桜の樹に卵を産みつけると、1年後幼虫となり樹から下り地中に入り7年間という長い年月を過ごす。その後成長し殻を持った幼虫は、穴を掘り地上に出て桜の樹を登る。そして、時が来ると背中の部分が破れ、成虫が出て来る。時間をかけて羽を延ばし完成する。夜のうちに行なわれる。朝方になると泣き出す。「日暮らし」というセミは、羽根が透き通って美しく、鳴声も美しい。セミは雄だけが鳴き雌は鳴かない。雄が求愛して鳴く。セミは成虫になって約一週間で一生を終える。セミの役目は何か?地中に居る時から、樹液を吸い桜の樹の成長の助けているという。自然は神の愛と恵みと分かち合いでいっぱい。自然界が私たちの気持ちを癒してくれるのは、まだ神の愛が存在するからである。自然界は、そうでない部分もあるが、神の愛のメッセージに満ちている。

 


守谷聖書教会礼拝説教要旨      2025/8/3

 

『十字架のもとに』 (ヨハネ19:23~27)             

 

聖書箇所  ヨハネ19:23~27

19:23 さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。

19:24 そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。

19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。

19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。

19:27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

 

説教要旨

主イエスの十字架の下には「ローマ兵士たち」と「主に従ってきた女性たち」がいました。ローマ兵士たちはイエスを十字架につけると、衣を取り四つに分け、各自に一つずつ渡るようにし、下着は縫い目のない物であり裂かないでくじ引きをすることとしました。上着や下着は役得でお金となりました。彼らは大きさに違いがないように衣を分けることに集中し、少しでも大きなものを取ろうとしていたことでしょう。また誰にくじがあたるかと興じていたことでしょう。しかしその中で神の救いのご計画が着々と進められていたのです。(v25)ローマ兵士たちは主イエスに無関心で、上着や下着のみに心が向いていました。目に見えるもののみに心が向き、神に無関心である「世」が表されています。

 

その一方で、主イエスを慕い求めていた女性たちが同じく十字架の下におりました。「教会」が示されています。主イエスは母にヨハネを見させ「あなたの息子です」と言われ、ヨハネにマリアを見させ「あなたの母です」と告げ、ヨハネはマリアを自分のところに引き取りました。主イエスは十字架上で肉体的にも精神的にも苦しみの極みの中で自分ではなく、母マリアの苦しみに心が向けられていました。但しこれはただ主イエスの母マリアへの肉親の愛を表しているのではないでしょう。主イエスはマリアを「女の方(v26)」と呼ばれました。血の繋がりのないヨハネとマリア、それが主イエスの十字架の御業の中で一つキリストにある交わりが形造られることが表されていたのです。ヨハネはマリアを受けた、マリアの歩みを負った、苦しみをともに苦しんだのです。教会はローマ兵士たちの交わりと対照的です。ローマ兵士たちは主イエスに無関心で「衣」を取ったのです。(「取る」はマリアを「引き取る」と同じ言葉)心と心、彼らの歩みそのものが共有される交わりではありませんでした。教会は主イエスを仰ぎつつ互いの心と歩みが共有され祈られていく交わりです。聖書が次にヨハネとマリアを一緒に記しているのは祈りの場面でした。(使徒1:13~14)

 

クリスチャン、教会の歩みについて二つ覚えさせていただきたいのです。ローマ兵士たちは主イエスの十字架に無関心で富にのみ心がありました。クリスチャンは主イエスの十字架に全く無関心ということはないでしょう。でも、経済的なこと、仕事のこと、家族のこと、起こって来る出来事で思い煩い、心配し、そこにのみに心が向いてしまうことがあるのではないでしょうか。主イエスはそうした私たちの葛藤、戦い、思い煩いをご存知で、私たちのまことの祝福を願って仰せられています。「…まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。…(マタイ6:31~34)」主との関係の祝福がこの世における具体的な生活の祝福と守りに繋がっていることを覚えたいのです。第二に教会は主イエスを仰ぎつつ互いを顧み、互いの歩みを受け取り、祈り合っていく交わりであることを覚えたいのです。教会はヨハネがマリアを引き取ったように、互いの痛み、歩み、弱さを自分のものとして受け取って祈り覚えていきます。それが私たちが願い目指していく姿です。では、どのようにしたら「人を顧みる」「人の歩みを担っていく」「弱さを担っていく」人となることができるのでしょうか。私たちは自分自身の事でも重荷があります。そうしなさいと言われてもできないでしょう。ヨハネは十字架の下に立っていました。主イエスは父なる神との交わりの中で最も苦しい時に自分の痛みに思いが向いていたのではなくマリアの痛みに思いが向いていました。主の十字架を仰ぎ神と交わりにおいて魂が神の恵みと慰めに満たされ、心にゆとりが与えられ、そのような歩みをなしていくことができるのです。『たましいの慰め 心の余裕(堀肇)』です。

 

聖書メッセージ 『ユダヤ人の王、ナザレ人イエス』 (ヨハネ19:17~22)

聖書箇所   ヨハネ19:17~22

19:17 イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。

19:18 彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。

19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていた。

19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。

19:21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と言った。

19:22 ピラトは答えた。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」

 

説教要旨

ユダヤ指導者たちはピラトから主イエスを受け取ると、ローマ兵士に主イエスを引き渡しました。「イエスは自分で十字架を負って(v17)」とあります。当時囚人は自分で十字架の横木を負って処刑場に向かいました。他の福音書を見ると、ローマ兵士たちは主イエスが途中で力尽き倒れたためでしょう、エルサレムに巡礼に来ていたクレネ人シモンに無理やりイエスの十字架を負わせたと記しています。しかしヨハネはそのことは一切記さず、逆に「自分で(v17)」と主イエスがご自分で十字架を負ったことを強調しています。主イエスはローマ反逆罪の二人の囚人と一緒にその真ん中に十字架につけられました。(v18)本来でしたら「バラバ(18:40)」がつけられることとなっていたのでしょう。しかし、バラバは釈放され、主イエスが十字架刑に処せられたのです。イザヤ書53章には救い主は「背いた者たちとともに数えられ(イザヤ53:12)」と預言されていました。救い主が私たちの罪を負い、私たちの罪の身代わりに神に罰せられ、私たちに罪の赦しをもたらすためでした。主イエスは私たちを愛するゆえに自ら私たちの罪を負い罪人とされ、私たちの罪の身代わりに神の裁きを受けてくださったのです。私たちの罪を赦し、バラバが釈放されたように私たちを罪の奴隷(支配)から解放し、主のものとし、神との交わりに生きる永遠のいのちを与えるためでした。

 

「罪状書き(v19)」のことで、ピラトとユダヤ指導者の間で小競り合いがありました。ピラトは「ナザレ人イエスは、ローマに反逆した」という罪状書きを掲げました。十字架は蔑みや嘲りを受けるため通り沿いに立てられ、多くのユダヤ人がその罪状書きを読みました。それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていました。ヘブル語はユダヤ人のため、ラテン語はローマ人のため、ギリシア語は当時の公用語でした。ユダヤ指導者たちは不服で、ピラトに「ユダヤ人の王と自称した」と書くよう要求しました。(v21)ピラトの蔑みの意図が分かっていたからです。しかしピラトは譲りませんでした。気分が良かったでしょう。しかしこれはピラトのこだわりを超えて、神の確かな導きであったのです。神は、この罪状書きにより、ナザレ人イエスは全世界の人々の救い主、王であることを知らされたのです。政治的王ではなく、人を罪の支配から解放し、神との交わりにもたらし、真に生かす王であると。

 

ピラトは主イエスを退け、保身で身を守りました。ユダヤ指導者との小競り合いにも勝ちました。しかしこの3年後にはサマリア人を虐殺し免職となりました。ピラトは一時的に自らを守っても内なる罪は解決されていませんでした。主イエスの十字架を仰ぎ見たいと願います。そこにこそ罪の赦しと永遠のいのちが与えられるのです。また主イエスはご自身を信じる者を悪から守り、永遠のいのちの中に保ってくださる王です。(ヨハネ10:28~29、14:18)罪との戦いがあり、打ち負けてしまうこともあります。でも主イエスは私たちを途中で放り出されることは決してありません。どのようによってでしょう。ローマ書6~8章はそのことが語られています。主イエスはクリスチャンに「あなたの罪のために十字架に架かったのだ。十字架を見よ」と十字架を仰ぎ見させてくださいます。「あなたはわたしのものだ」と確認してくださいます。聖霊が住んでおられることを確認させ、聖霊に導かれて歩むよう促してくださいます。「自分を主に献げなさい」と語られます。献げるとは「傍らに置く」との言葉です。悪や罪の傍らに自分を置き続けるのではなく、主の傍らに自分を置くのです。その姿勢を取るのです。そのようにして主イエスは私たちを永遠のいのちの内に保ってくださいます。ユダヤ人の王、ナザレ人イエスを仰ぎ見たいと願います。そうすれば新たに生きるのです。