2025年聖書メッセージ 8月から12月
12月24日 イブ礼拝 『まことの光が世に』(ヨハネの福音書1章9~13節)
12月21日『真の王を礼拝する』 (マタイの福音書2章1~12節)
12月14日『鳩のようにくだる聖霊』(マルコの福音書 1章1~11節)
12月7日 『その名はインマヌエル』 (マタイの福音書1章18~25節)
11月30日 『神の約束の成就』(マタイの福音書1章:1~17節)
11月23日 『あなたはわたしに従いなさい』 (ヨハネの福音書21章20~25節)
11月16日『わたしに従いなさい』(ヨハネの福音書21章18~19節)
11月9日(子ども成長祝福式)『あなたの創造者を覚えよ』(伝道者の書11章9~12:1節)
11月2日 『わたしを愛していますか』(ヨハネの福音書21章15~17節)
10月26日『主イエスのふるまい』(ヨハネの福音書21章1~14節)
10月19日 『いのちのことば』 (ヨハネの福音書20章30~31節)
10月12日 『獲得された真の平和』(イザヤ書11章6~9節)
10月5日 『見ずに信じる人たちは幸い』(ヨハネの福音書20章24~29節)
9月28日『平安と派遣』 (ヨハネの福音書20章19~23節)
9月14日『慰めよ、慰めよ』(イザヤ書40章1~2節)
9月7日 『なぜ泣いているのですか』(ヨハネの福音書20章11~18節)
8月31日 『まだ理解せず』(ヨハネ理解の福音書20章1~10節)
8月24日 『主イエスの葬り』(ヨハネの福音書19章38~42節)
8月17日『神の大きなみわざ』(ヨハネの福音書19章28~37節)
8月10日『世に神の愛は在るのか?』(創世記1:24~31)
8月3日『十字架のもとに』 (ヨハネの福音書19章23~27節)
守谷聖書教会イブ礼拝説教要旨 2025/12/24
『まことの光が世に』(ヨハネ1:9~13)
聖書箇所:ヨハネ1:9~13
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
説教要旨
守谷聖書教会クリスマス礼拝説教要旨 2025/12/21
『真の王を礼拝する』 (マタイ2:1~12)
聖書箇所 マタイ2:1~12
2:1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
2:3 これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。
2:4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
2:7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。
2:8 そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。
2:9 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。
説教要旨
イエス・キリストはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになられました。(v1)ヘロデ王は、紀元前40年、イドマヤ人でしたが、当時の支配国ローマ帝国の元老院より、ユダヤ人の王に任命されました。大変有能な人物で、大規模な建築事業を行いました。ユダヤ人から支持を得ようと神殿の改修を行ったり、ユダヤ人女性と結婚しました。しかし彼は猜疑心が強く、絶えず不安を抱え、自分の王位を守るために次々と人を退け、晩年には自分の息子たちや妻も殺害しました。そういった彼の晩年に、東方の博士たちがユダヤ人の王、救い主を求めて礼拝するためにやって来たのです。ヘロデ王は恐れ、そのユダヤ人の王を殺そうとしました。
ユダヤ人の王、救い主は一体どのようなお方でしょうか。ユダ族において最も小さな町ベツレヘムで生まれ、民を牧する羊飼いなる王でした。民を命がけで守り、養う王でした。「ユダヤ人の王」ということが、後の主イエスの十字架の罪状書きに記されました。ユダヤ指導者たちは、十字架にかけられた主イエスを馬鹿にしました。「他人は救ったが、自分は救えない(マタイ27:42)」と。主イエスは十字架に架かったまま、死なれていかれました。しかし、この十字架の死において神の救いのご計画が成し遂げられたのです。それは私たちのための身代わりの死でした。私たち人間は、羊飼いから迷子になった羊のように、造り主なる神から離れ、この世の苦難や悪の力によって弱り果て倒れています。魂が渇き切り、愛に飢えています。主イエスはその私たちを愛し、罪から救い、神とともに生きるいのちを与えるために身代わりに神の裁きを受け死んでくださったのが十字架の死でした。そのために来てくださったのです。主イエスはヘロデ王とは対照的でした。自分が死んで人を生かしました。主イエスは死んで終わりではありませんでした。復活され今私たちの羊飼いとしてともにおられ守り養ってくださいます。小さき弱き者を引き上げてくださいます。マタイは、それを深く覚えていました。ですのでベツレヘムはミカ書の預言では「あまりにも小さい」ですが、真の羊飼いである救い主を生まれたベツレヘムは「決して一番小さくはない(v6)」と言い換えたのです。
この救い主の到来をへロデ王は退けました。一方東方の博士たちはひれ伏し礼拝しました。そして「別の道に帰って行った(v12)」のです。私たちは、なかなか自分を変えることができません。裁く心。妬む心。恐れる心。それはヘロデ王のように自分が自分を治めているからだと聖書は告げます。しかし、真の王、主イエスにひれ伏し礼拝する時に、主イエスが私たちを導き、「別の道」へと、神ご自身の祝福と御力を受けた新たな歩みが始まっていくのです。「あまりにも小さい」から「決して一番小さくない」と、引き上げられていくのです。「主我を愛す 主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ(讃美歌461)」
今あなたの王は誰でしょうか?今日東方の博士のように渇き求めてここに来られた方がおられます。主イエスを私の王、私の救い主として迎え、神に信頼し引き上げられていく新たな歩みへと導かれていただきたいのです。クリスチャンもいつの間にか自分を王として歩み、渇き、重荷を負い恐れ、疲れ果ててしまうことがあります。でも、主イエスは私たちに語られています。「あなたはわたしのものだ。わたしがあなたを導いている」苦難と恐れと戦いの中で主イエスを私たちの心の王座に迎え直すように、今日一日の主導権を主に明け渡し助けを求めるように、重荷を主のところに持っていき主とともにその重荷と戦うように祈りに招かれています。「真の王を礼拝する」クリスマスとしましょう。そして神がくださる祝福の道へと導かれていきましょう。
守谷聖書教会待降節第三礼拝(歓迎礼拝)説教要旨 2025/12/14
『鳩のようにくだる聖霊』(マルコ1:1~11) 斎藤 成美師
聖書箇所 マルコ1:1~11
1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
1:5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
1:6 ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。
1:10 イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。
1:11 すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
説教要旨
人間が作る国境はイスラエルの北では太い針金をグルグル巻いたものです。国連軍が守っています。ガザ地区は大きなコンクリートの壁です。創造者なる神が造られる国境は見えません。創造者・神はエサで国境を造られ、動物達を区切られました。創造者の知恵です。
Ⅰバプテスマのヨハネとイエス
預言者イザヤの預言通り(約600BC)、紀元前7年ころ、祭司ザカリヤと妻エリザベツにヨハネが生まれ、(ルカ1:24~25)荒野で成長しました(ルカ1:80)。ある言い伝えによると、年老いた両親は死に、ヨハネはクムランの荒野にあった施設で育ったと言われます。真意は分かりません。そのヨハネが、紀元26年頃、属したであろうクムラン宗団あるいはエッセネ派から独立し、神の声を直接聞き「悔い改めとバプテスマ」を伝え始めました(マルコ1:5)。
Ⅱイエス、バプテスマを受ける。
ある日イエスさまは、ナザレ村からヨルダン川のヨハネの所に来てバプテスマを受けられました。(マタイ3:14)しかし、ヨハネはそうさせまいとして言いました。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」(15)しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
Ⅲ鳩のようにくだる聖霊
(マルコ1:10)イエスさまが水の中から上がられると、すぐそのとき、
天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。神は、二つの事を喜んでおられます。
(1)は、人間の当然ながら受けるべきバプテスマを受けるのを、イエスが模範として受けられた事を喜ばれました。イエスさまがひとりの罪人として受けられた通り、赦しのバプテスマを受ける人を神は喜ばれます。(2)は、イエスさまが、鳩が下るように聖霊を受けられたように、すなわち、聖霊がバプテスマを受けたい人に内住してくださることを喜ばられるのです。すなわち、バプテスマは、最終的には聖霊によるバプテスマを指しています。受洗者は、聖霊に導かれた歩みをするためです。「鳩」は平和の象徴です。聖霊による歩みは「心の平安」で満ちる生活です。聖霊は、時に大きな試練に導くことがあります。イエスさまもそうでした。聖書は、バプテスマのすぐ後、荒野に導かれ、大きな誘惑に会い、大試練を受けられます。どのような時にも、聖霊と共にある生き方は心の平安です。それを持ってそれぞれの人生を力強く生き抜く事が出来ます。クリスチャン生活とは、助け主・聖霊によって新しくなった生きる事です。御霊の支配をいっぱいに受ければ受けるほど、喜びと平和の生活が出来ます。信仰生活を求めている方々に、神は、人々に水のバプテスマを願っています。そして、聖霊のバプテスマを受ける事を願っておられます。求めておられる方々は、バプテスマを受けられる事をお勧めします。
守谷聖書教会待降節第二礼拝説教要旨 2025/12/7
『その名はインマヌエル』 (マタイ1:18~25)
聖書箇所 マタイ1:18~25
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
1:19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
1:21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、
1:25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。
説教要旨
マタイはイエス・キリストの「系図」に続いて「誕生」を記しました。ヨセフはマリアと婚約していましたが、二人が一緒にならないうちにマリアが身籠りました。「分かった(v18)」との言葉は受身形で、他の聖書のところでは「見つかった」とも訳されています。発見されたのです。恐らくマリアは御使いから告げられた聖霊によって身籠ったことをヨセフに話すことができず、お腹が少しずつ大きくなって、ヨセフはそれを見つけ知ったのでしょう。そこで初めてマリアから聖霊によるとの話を受けたのでしょう。自分の身に全く覚えがない。そして聖霊によるなど信じられない。ヨセフは驚愕し、苦しみ、失望や怒りの渦の中に置かれたことでしょう。そして最終的にはマリアを思いさらし者にしたくなかったのでひそかに離縁しようとしました。ヨセフがそのようなことを思い巡らしていたところ、主の使いが夢に現れ、マリアの胎に宿っている子は聖霊によると告げました。生まれてくる子はマリアより生まれるので人間の子です。と同時に、聖霊によって身籠った神の子です。生まれてくる子は、まことに神であり、まことに人です。
それは救い主としての「使命」と大きく関わっていました。「イエス」との名は「主は救い」との意味です。イエスはご自分の民を罪からお救いになるのです。人を罪から救うためには罪のない者でなければなりません。借金のある者は、借金のある者の肩代わりはできません。神でなければなりませんでした。しかし同時に人の罪を負い人の身代わりに神の裁きを受けるため人でなければなりませんでした。まことの神でありまことの人であるイエス・キリストは私たちの罪の身代わりに十字架で神の裁きを受け死なれ、その死によって神との隔てをもたらしていた罪を赦し、「インマヌエル(v23)」、神は私たちとともにおられるようにしてくださったのです。神はイエス・キリストのゆえに私たちとともにおられます。また「その名はインマヌエル(v23)」とはイエス・キリストは「神は私たちとともにおられる(v23)」お方そのものであることをも示しています。イエス・キリストは人となられた神で私たちとともにおられます。そして仰せられます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」
さて改めて思います。この神の救いの御業がなされたのは、ある意味でマリアだけいればよかったのではないか。しかし幼子イエスとマリアの歩みを守るためにヨセフが必要でした。神の御業にヨセフは自分の分を果たしました。ヨセフは神の言葉に聴き、従いました。(v24)神の言葉に聴くとは、神の前で思い巡らしていることです。祈りには願い、感謝、罪の告白があります。それらは↑の祈りです。一方で祈りにおいて言葉にならない時があります。ただただ主の前で思いを巡らすのです。それで良いのです。祈りは主の語りかけを聴くことです。↓の祈りです。自分の思いを強めるような形で聖書を聞くのではない。自分の思いを持ちつつ、しかしそれを主のところに置きながら御言葉に主の御声を聴いていくのです。そして自分のうごめく思いの中でその細き御声に従っていくのです。そこに神の御業が現わされていくのです。
イエス・キリストは私たちを罪から救い、神が私たちとともにいるようにしてくださるために来てくださいました。またイエス・キリストは人となられた神で、私たちの友となるために来てくださいました。待降節の時、今まで以上に、いいえ、新たな思いで人となれらた神イエス・キリストが私たちとともにおられることを深く心に刻みたいのです。より主イエスの近くを歩み、傍らにいる友に自分のことをそのまま語るように真の友イエス・キリストに語り、その細き御声に聴き、従い、主の道を歩み、神のお働きに仕えていく待降節とさせていただきましょう。
守谷聖書教会待降節第一礼拝説教要旨 2025/11/30
『神の約束の成就』(マタイ1:1~17)
聖書箇所 マタイ1:1~17
1:1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。
1:2 アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、
1:3 ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、
1:4 アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、
1:5 サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、
1:6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、
1:7 ソロモンがレハブアムを生み、レハブアムがアビヤを生み、アビヤがアサを生み、
1:8 アサがヨシャファテを生み、ヨシャファテがヨラムを生み、ヨラムがウジヤを生み、
1:9 ウジヤがヨタムを生み、ヨタムがアハズを生み、アハズがヒゼキヤを生み、
1:10 ヒゼキヤがマナセを生み、マナセがアモンを生み、アモンがヨシヤを生み、
1:11 バビロン捕囚のころ、ヨシヤがエコンヤとその兄弟たちを生んだ。
1:12 バビロン捕囚の後、エコンヤがシェアルティエルを生み、シェアルティエルがゼルバベルを生み、
1:13 ゼルバベルがアビウデを生み、アビウデがエルヤキムを生み、エルヤキムがアゾルを生み、
1:14 アゾルがツァドクを生み、ツァドクがアキムを生み、アキムがエリウデを生み、
1:15 エリウデがエレアザルを生み、エレアザルがマタンを生み、マタンがヤコブを生み、
1:16 ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。
1:17 それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。
説教要旨
待降節を迎えました。マタイはユダヤ人にイエスが救い主であることを示すために系図を記しました。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図(v1)」ユダヤ人は救い主はダビデ王の子孫であると堅く信じていました。イエス・キリストは「アブラハムの子孫」「ダビデの子孫」です。しかし、系図はただ血筋が繋がっていることを示しているだけではありません。17節を見ますとアブラハムからダビデまで、ダビデからバビロン捕囚まで、バビロン捕囚からイエス・キリストまでと三つに区切り、その一つの区切りが全き完全を表す14代であると記しました。神の全きご計画の中でイエス・キリストは誕生されました。神の契約の成就としてイエス・キリストは誕生されました。神はアブラハム、ダビデと契約を結ばれ、その契約をイエス・キリストによって実現されたのです。「アブラハム」とは、イスラエルの始祖で、アブラハムに「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる(創世記22:18)」と約束されました。その「あなたの子孫」こそイエス・キリストであるのです。また神は「ダビデ」に「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなる(Ⅱサムエル記7:16)」と約束されました。しかし、ダビデ王朝は神に背き、神に裁かれ、バビロン捕囚とせられました。神はご自分の民を全く忘れ去られたようでした。v13の「アビウデ」以降、旧約聖書に登場しておりません。ヨセフはナザレ村の大工に身を落としていました。しかし、神は民を裁かれ懲らしめましたが、捨て去りませんでした。ご自身の契約を誠実に守り切られ、真の王、全人類の救い主としてイエス・キリストを与えられたのです。
神はイスラエルの罪にも関わらず、ご自身の契約を誠実に守られました。そのことを系図に女性を登場させることによって更に示しています。「タマル(v3)」「ラハブ(v5)」「ルツ(v5)」「ウリヤの妻(v6)」と女性の名を挙げています。タマルは義父ユダを騙し子を身籠り、ラハブはカナン人の遊女で、ルツは神の民に加わってはならないモアブ人で、ダビデウリヤの妻と不倫しました。恐ろしい罪の歩みです。にもかかわらず神は民を捨てず、ご自身の契約を誠実に守られ救い主を与えられたのです。神の永遠の愛のゆえでした。(エレミヤ書31:3~4)
待降節を迎えました。クリスマスはイエス・キリストが来てくださったことをお祝いする日です。その通りです。しかし、ただそれだけの理解であるならば小さいでしょう。神は私たちを永遠に愛し、ご自身の契約を誠実に守り抜かれ、救い主を与えてくださったのです。神の驚くべき誠実な愛の御業を覚え感謝をささげましょう。そして私たちはイエス・キリストに連なり、ある意味でこの系図に繋がっていると言えます。神はその私たちを愛しご自身の誠実さにかけて救いの完成、天国に向かって導いてくださっておられます。私たちのささやかな日々は神の救いの完成に向かっている歩みです。順境の時があります。神に全く忘れ去られたように思える時もあります。見える現実があります。しかし地に足をつけながらもう一つの現実をしっかりと覚えていたいのです。神は私たちを愛しご自身の誠実さにかけて背負い導いてくだっておられすべてのことを働かせて益としてくださるのです。神をより知り神により仕える者へと導いてくださるのです。明日のことを思い煩うな、今日まず神との関係を慕い求めよ、それに加えて必要なものは備えられるとお語りくださりながら導いてくださっておられるのです。
待降節、神の愛と善をしっかりと胸に刻み感謝し、また神への信頼に立ち戻りたいと願います。神が私たちを愛し善きをなしてくださることのゆえに御言葉に静まって御声を聴き、よく祈り、魂が神の近くにある歩みをなしていきましょう。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2025/11/23
『あなたはわたしに従いなさい』 (ヨハネ21:20~25)
聖書箇所 ヨハネ21:20~25
21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
21:21 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
21:23 それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。
21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。
説教要旨
ヨハネ福音書の最後の箇所です。主イエスから教会を牧する使命を受け、その中で殉教の死を告げられ、「わたしに従いなさい(v19)」と語られたペテロは、後ろに誰かがついてくるのを感じたのでしょうか、振り返りました。主から目を離しました。主に愛され、主に従い委ねられた務めをなしていく覚悟がなかったというのではないでしょう。その覚悟はできていたでしょう。でも、主から目を離し、ヨハネがついて来るのが目に入ったのです。そしてヨハネを見て主に尋ねました。「主よ、この人はどうなのですか(v21)」主イエスはペテロに仰せられました。「…あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい(v22)」「あなたは」が強調されています。「ペテロ。他者がどうこうということではない。わたしがあなたに用意した道にあなたは従い続けなさい」
「あなたは、わたしに従いなさい(v22)」この主の言葉はヨハネの内にも響いていました。(v24)ヨハネは主イエスが仰せられた通り弟子たちの内で最も長寿となりました。ペテロもパウロもすでにネロ皇帝の時代に殉教していました。その中でヨハネは主が自分に用意された道において主に従い、主イエスの証しに生き、この福音書を書きました。ヨハネがこの福音書を記した時、90歳をこえていたと考えられています。そこには確かに聖霊なる神の助けと導きがあったでしょう。しかし福音書を適切に記していく働きは老年を迎えた者にとって至難の業であったでしょう。羊皮紙やパピルスの紙の上にインクを一文字一文字大切にのせていきました。主イエスの偉大さ、主イエスの無限の愛を証ししました。(v25)そうです。「宣べ伝えた」のではなく、「証し(v24)」したのです。すでにヨハネの時代、紀元90年頃には、ローマ帝国による大規模なクリスチャン迫害が始まっていました。問い詰められ、追い詰められながら、自分たちの信じるお方を言い表していく状況となっていました。ヨハネは迫害の中でパウロのごとくのびのびと宣教ができませんでした。ペテロのごとく殉教の雄々しい姿でもありませんでした。でも汲めども尽きない主イエスの愛を、主イエスの胸元に寄りかかるようにして受け、主の愛に支えられながら、主イエスを証しし、福音書を記す自らの使命に生き切ったのです。
主イエスはあなたに仰せられます。「あなたは、わたしに従いなさい(v22)」私たちは主イエスに従い、主がご用意くださった道を主イエスとともに歩んでいます。でも、主イエスから目を離し、隣人が見え、その隣人の能力や状況を見て様々なことを思う私がいます。年を取り体に弱さを覚えご奉仕できないと言う方。自分ばかりに様々な奉仕が重なっていると思う方。家族が礼拝に出席している方。独りで礼拝に出席している方。家庭が穏やかな日々を送っている方。身の置き所がなく何とか一日一日を切り抜けている方。それぞれ違います。でも、主イエスは仰せられます。「あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いない(v22)」私たちは「みんなちがって、みんないい」とただ自分に語りかけるだけなのではありません。私たちを造られ贖いご自身の教会に迎え導かれている主イエスご自身が“権威をもって”「あなたはあなただ」と仰せられているのです。但しこれは「我が道を行き、他者を顧みない」というのでは決してありません。主のからだなる教会の一器官として互いの益のために自らの分を誠実になしていくのです。
汲めども尽きないのが主イエスの愛です。私たちは主イエスの胸元に寄りかかり、主イエスの愛をますます知り、主の愛に気づかされていきます。主から目を離さないで「あなたは、わたしに従いなさい(v22)」の御声に聴き続け、主がご用意くださる私の道を主とともに主に従って歩んでいきましょう。私たちは「主の愛を知り生きる教会」です。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2025/11/16
『わたしに従いなさい』(ヨハネ21:18~19)
聖書箇所 ヨハネ21:18~19
21:18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
21:19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
説教要旨
主イエスはペテロを赦し立ち直らせ、教会に仕える務めを託された後に語られました。「まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます(v18)」「若いとき(v18)」とは主イエスに従い始めここにいたるまでの3年の歩み方を指していました。主とともに過ごしていますが、根っこは自分の思いのままに歩み、自分の名誉を求めるペテロでした。しかし「年をとる」とはこれからの歩みを告げ、ご自身に従い、教会に仕え、殉教の死を迎え、神の栄光が現わされると預言的に告げられました。(v19)それは、主イエスは「ぶどうの木」のたとえ話をなされていましたが(15:1~8)、ペテロの「若いとき(v18)」の歩みは、主イエスに従いながらもペテロが幹でイエスが一つの枝のような歩みでした。それが「としをとる(v18)」と、主イエスが幹でペテロが枝となるような歩みとなることでした。ペテロはネロ皇帝の時代、紀元64年に十字架にはりつけられて殉教したと言われています。
主イエスはペテロにご自身に従っていく歩みに「穏やかな日々」「戦いのない状況」を約束されたのではありませんでした。患難の歩みにおいて神の栄光が現されることを約束されました。信仰の質、信仰のゴールを顧みさせられます。私たちの目的、ゴールは何でしょうか?神の栄光を現わすことです。主イエスに従っていく歩みに主の守り、神の平安があります。でも、それは信仰の恵みの「結果」です。それを「ゴール」「目的」とすると、「状況」がどうかということだけに揺り動かされてしまいます。ゴールが神の栄光が現れることであるならば、苦難を試練とし、主を待ち望み、忍耐が与えられ、将来と希望が備えられるとの信頼へと導かれていきます。そして神の栄光が現れされるのは、「主よ、はい、私はあなたを愛しています」と主張するような信仰ではなく、自分を知り弱さを認め、「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」との信仰です。(Ⅱコリント12:9~10)自分が強ければ現れるのはその人の栄光でしょう。もろさを認め、主によりすがり従っていく、そこに神の栄光が、神の力が現されていくのです。
主イエスは、殉教の死と神の栄光が現される未来を告げた後に仰せられました。「わたしに従いなさい(v19)」あなたにも語られています。今週も世にあっては患難があります。でもその中でわたしに従いなさいと。では、主への従順を支えるのは何でしょうか?主イエスはご自身に従うことを告げられる前にペテロになされたことはご自身への愛の確認でした。そうです。主への従順の下支えは主への愛です。主イエスへの愛がなければ、主に従うことは形式的、律法的になります。また長続きしないでしょう。では、主イエスへの愛はどのように生まれ、育まれ、深められていくのでしょうか?主の私への愛に気づかされていく以外ないでしょう。主イエスはこの私の罪のために身代わりに十字架で苦しまれ、死んでくださり、罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださいました。主イエスは信じた後にも罪に打ち負ける私を捨てず、赦し、再出発を与え続けてくださいます。主は私の羊飼いとして絶妙なご配慮をもって守り導いてくださいます。主に愛され主を愛するのです。
本日、石井姉、藤田姉が転入会をなされます。主の愛を知り主の真実さに感謝し、主を愛し、主に従う歩みへと導かれておられます。私たちは私の状況の守り、私の平安を求め主に従うのではなく、主の愛に気づかされ、主を愛し、主に従い神の栄光が現わされることを求めていきましょう。そして神の栄光が現されるという意味での主の守りを心から信頼していきたいと願います。
守谷聖書教会歓迎礼拝説教要旨(子ども成長祝福式)2025/11/9
『あなたの創造者を覚えよ』(伝道者の書11:9~12:1)
聖書箇所 伝道者の書11:9~12:1
11:9 若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。
11:10 あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。
12:1 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。
説教要旨
本日は子ども成長祝福式を覚えつつ、聖書は若い日にどのように歩むように語っているのかを見ていきます。「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め(v9)」若者よ、日々を楽しみ喜べ。自分のこう歩みたいという道を歩みなさいと伝えています。「へーそうなんだ。意外だな。聖書は道徳的なことを教えているが楽しむことや喜ぶことは積極的には勧めていないと思っていた」と思われる方があるかもしれません。でも、伝道者の書、いいえ聖書全体は、あちらこちらに人生を楽しみ喜ぶことを教えています。それは人類の初めからそうでした。神は世界を造られ、人間を創造され、エデンの園に置かれました。神は「見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を生えさせた(創世記2:9)」とあります。そして仰せられたことは「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい(創世記2:16)」でした。神が造られたものを喜び楽しみ、美味しいと食することは神の御思いでした。楽しみ喜ぶことは神の御心であり、悪いことではないことを覚えましょう。
「しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ(v9)」神は私たちが楽しいことや自分の思うことをすることにおいて善い悪いの判断をされます。後には神のさばきがあります。だから続いています。「あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ(v10)」私たちの心と体において、私たちの心と体を造られた神さまを悲しませるようなことはしないようにと告げます。創世記でも神は「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい(創世記2:16)」の後に「しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ(創世記2:17)」と仰せられました。神を畏れ敬う中で喜び楽しむのです。いいえ、神を畏れ敬って歩むことこそ本当の意味で喜びと楽しみの歩みであるのです。(伝道者の書2:25)
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ(12:1)」神は私の命の造り主です。あなたは神に造られた尊い存在です。「覚えよ(v1)」とは「記憶する」ではなく「心に深く留める」との意味です。聖書はこの言葉を神が人間を覚えておられる、心に留めておられるときに使っています。(詩篇8:4)神は “親が我が子をいつも思っているように”私たちを愛し、いつも思い、祝福を願っておられます。皆さんは知っていますか?お父さんやお母さんがいつも皆さんのことが心にあることを。お仕事でパソコンに向かっていてもお客さんとお話ししていても心の奥深くでは皆さんのことがあります。神は「あなたの命の造り主」ですから、あなたを愛し、いつも思い、祝福を願われています。ですから「あなたの創造者を覚えよ(v1)」とは、造り主なる神さまを心に留め、神との交わりに生きよということです。神に信頼し、神とともに歩み、嬉しいことは造り主なる神に感謝し、心配やつらいことは造り主なる神にすべてお話しして歩むことです。神は私たちの喜びの歩みを妨げている罪を赦し、真の喜びと祝福の歩みを与えるために、御子イエスさまを二千年前この地にお与えくださり、イエスさまを十字架にかけ私たちの身代わりに裁かれ、神に立ち返る道をお開きくださいました。イエスさまを信じるとき、すべての罪が赦され、神ととともに生きる新しい歩みが始まります。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ(v1)」子どもたち・中高生は救い主イエスさまを信じ、あなたの造り主なる神さまとともに歩み、真に喜びのある生涯を歩んでいただきたいと願います。また、教会は子どもたちが造り主なる神さまにある真に祝福された生涯へと導かれていくように語り、見守り、祈り続けていきたいと願います。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2025/11/2
『わたしを愛していますか』(ヨハネ21:15~17)
聖書箇所 ヨハネ21:15~17
21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
説教要旨
復活された主イエスに出会いながらもペテロ自身の心は主イエスを三度知らないと裏切ったことのゆえに依然重いままだったでしょう。主イエスの愛のふるまいの中で自分たちに再召命を与えて下さっていることは覚えていました。事はどんどん進んでいました。でも心が重いペテロでした。
主イエスはそんなペテロにガリラヤ湖畔を歩きながら声をかけられました。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか(v15)」「ヨハネの子シモン」とは主イエスがペテロを最初に弟子に召された時にかけられた名でした(1:42)。「この人たちが愛する以上に」とはたとえ他の弟子たちが躓いても自分は躓かないと豪語したことと関係していたでしょう。ペテロは答えます。「はい、主よ(v15)」と主イエスへの愛を告げます。でも「私はあなたを愛しています」とは答えないのです。「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです(v15)」と私は愛していると自己主張するのではなく、自分は主イエスを愛しているが、その愛の頼りなさを覚えて自分の主への愛の真偽を主に委ねているのです。また「この人たちが愛する以上に」ということは全く触れていません。他の人がどうこうということは言えないのです。そして二度、三度、主イエスは「あなたはわたしを愛していますか」と尋ねられました。ペテロは三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので「心を痛め(v17)」ました。(v17)主イエスを三度否定した自らと深く向き合せられ自らの罪を悲しんだのです。そして「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたはわたしが愛していることを知っておられます(v17)」と主が自分を知っておられることを繰り返しました。主イエスに丸ごと自分を委ねている応答でした。このようにもろさを覚えつつも主イエスを愛するペテロとさせていたのは、他でもなく主イエスの自分への愛でした。主イエスを三度知らないと否定した時、主の慈しみの目がありました。主イエスはご自身から声をかけてくれました。主イエスは検査官のようにご自分への愛を尋ねておられたのではないでしょう。主イエスはペテロの一つひとつの行動に十分ご自分への愛を分かっておられたでしょう。そう考えますと主イエスの尋ねはペテロ自身のための尋ねであったと言えます。三度否定したペテロに三度ご自分への愛を告げる機会を与え、自分の罪やもろさと向き合わせ、かつ赦しの言葉はありませんが赦しを与え、立ち直らせ、再召命を与えられたのです。ペテロに教会を牧するように命じておられますが、何よりも主イエスご自身がまずペテロの羊飼いであられたのです。
主イエスはまことに私たちの良き羊飼いです。人の心は繊細です。複雑です。主イエスはまさにそれぞれ羊飼いとしてその心の痛み、渇き、悔い、罪の重荷をご存じで赦し、癒し、立ち上がらせてくださるお方です。主イエスは私たち一人ひとりに尋ねておられます。「あなたはわたしを愛していますか」「はい、わたしはあなたを愛しています」と答えられることは幸いでしょう。でも信仰の歩みを重ね自分という人間を知らされていく中でそう答え切ることができないものを自分の内に覚えます。では主を愛していないのかというと決してそうではない。自分の罪の大きさを知れば知るほど主イエスの十字架は私のためであったことを覚え、また主イエスが羊飼いとしてともにおられ愛し導いてくださっておられることを覚え、主イエスを愛しております。そういう中で私たちの信仰は「私に力点が置かれていく信仰」から「主に力点が置かれていく信仰」に導かれていくのです。そしてそうした自らを主に委ねていく砕かれた魂こそ、「わたしの羊を飼いなさい」という、主の愛する隣人に仕え、慰めや励まし与えていく歩みへと導かれていくのです。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2025/10/26
『主イエスのふるまい』(ヨハネ21:1~14)
聖書箇所 ヨハネ21:1~14
21:1 その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。
21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。
21:3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。
21:4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。
21:7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。
21:8 一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。
21:9 こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。
21:10 イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
21:11 シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。
21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。
21:13 イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。
説教要旨
使徒ヨハネは20章の終わりにこの書の「性質」と「目的」を記し一旦は筆を置こうとしましたが、後の世代に証しすべき大切なエピソードとして21章を記しました。本日の箇所は復活された主イエスが三度目に弟子たちにご自分を現された次第が記されています。主イエスは目的をもって弟子たちにご自分を現されたのです。場所は「エルサレム」から「ガリラヤ」となっています。弟子たちがガリラヤに行ったのは復活された主イエスから「あなたがたより先にガリラヤに行く、そこで会う」との言葉を受けたからでしょう。(マタイ28:7)ガリラヤは弟子たちの出身地であり主イエスに従い始めた地でした。ペテロは「私は漁に行く(v3)」と言い、他の弟子たちも「私たちも一緒に行く(v3)」と言いました。どのような思いだったのでしょうか。主イエスの弟子であることを辞めて漁師に戻ったとの解釈もありますがそうではないでしょう。弟子たちは主イエスからのガリラヤにとの言葉に従いガリラヤに来ていたのです。その一方でガリラヤに来てただ食べ物がなかったので漁に行くと言っただけだとの解釈もありますが後の主イエスの弟子たちへの関わられ方を見るとそうではないでしょう。弟子たちは20:21~23で主イエスから福音伝道の働きを委ねられていましたが、主イエスを裏切ってしまったことの中で主イエスに従う無力さを覚え、意気消沈し、目的を失って漁に行くと言ったのでしょう。彼らは小舟に乗り込み一晩中働きました。しかし何も捕れませんでした。(v3)
「夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた…(v4)」魚が捕れるのは夜でしたから、夜が明け始めていたとは魚が捕れない時となっていました。弟子たちの知恵、経験、工夫をもってもどうにもならなかった状況を示していたでしょう。それは主イエスに従うことへの無力さ、意気消沈していた弟子たちの内なる思いと重なりました。①そのときに主イエスは岸辺に「立たれた(v4)」のです。彼ら自身の心に立っておられたのです。②続いて主イエスはルカ5章の弟子たちの最初の召命の時と同じような経験をさせ、弟子として召されたことを思い出させ、ご自身の彼らへの召命は変わらないことを示し、再出発を与えようとされました。③主イエスは陸地に上がった弟子たちに朝の食事のふるまいをされました。ここには何とも言えない主イエスと弟子たちの交わりがあります。言葉は無い語らいがあるのです。主イエスの愛(赦し)を受けている弟子たちでした。主イエスからあなたがたを必要としていると使命を託されている弟子たちでした。主イエスの愛に浸っている弟子たちでした。そして自分をすべて主に委ねている弟子たちでした。
私たちは、こんな師、こんな友がいたらと思います。まさに主イエスは私、あなたにとってそのような羊飼い、友です。真に人間味のあるお方です。主イエスは真の人です。また主イエスは私たちを愛し、身代わりに十字架に架かり死なれ、死人の中から復活して永遠にともにいてくださる真の神です。(v14)主イエスは、転入会に導かれました大森姉、山口姉の傍らに立ち、幼き頃のご自身との出会いを思い出させ、御言葉による養いを与えてくださっておられます。私たちは教会に仕える働きや日々の委ねられている務めにおいて無力さを覚え、意気消沈し、明日への不安に満ちることがあります。しかし主イエスはそんな私たちの側に立ち、再出発を与え、御言葉による養いを与え続けてくださいます。この主イエスの愛のふるまいの中で新たに力を受け溜め、主から託されているそれぞれの務めをもう一度担いなしていく歩みへと導かれていきましょう。ヨハネのごとく「主だ」とここにも確かにともにいてくださる主イエスを仰ぎ、ペテロのごとく少しでも主の近くをと明日ではなく直ぐに主イエスに近寄っていく私たちでありたいと願います。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2025/10/19
『いのちのことば』 (ヨハネ20:30~31)
聖書箇所 ヨハネ20:30~31
20:30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
説教要旨
主イエスはトマスに弟子たちの目撃証言(新約聖書)によってご自身を信じる者たちの幸いを語られ(v29)、使徒ヨハネは続いて記しました。「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない(v30)」「多くのしるし(v30)」とはイエスが神の御子キリスト(救い主)であることが現された御業のことです。ヨハネはこの福音書において主イエスがなされた七つのしるしを記しましたが、それら以外にもなされたしるしを全て記したわけではありませんでした。それは復活の顕現についても同じだったでしょう。ヨハネは厳選して主イエスが弟子たちの前でなされたしるしと復活のしるしを記したのです。ヨハネは自分が主イエスのしるしと復活を見た“目撃者”として記しました。それがこの福音書でした。
この書を記した目的を続けました。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである(v31)」「イエスが」とあります。この福音書が告げてきたのは一貫してイエスのことです。「神の子」イエスは父なる神のふところにおられた独り子なる神であられます。「キリスト」イエスは聖書において約束されてきた救い主であられます。「信じるため」とはイエスを神の御子キリストと初めて信頼する信仰決心のことです。「また信じて」とは「信じ続けて」を表し、信じた者がイエスを神の御子キリストであると信頼し続けていくことです。そして「いのちを得るため」です。神との交わりが失われていた人が神に立ち返り、神との交わりが与えられるためです。また信仰者がイエス・キリストを信頼し続けて、神との交わりに生かされ、安らぎと喜びを得、自分中心に歩むのではなく人に仕える歩みをなしていくためです。そういう主イエスへの信頼を、しるしを見てではなく、弟子たちの証言である聖書に礼拝そして日々のささやかな歩みにおいて聴き、なしていくのです。聖書のための聖書ではありません。(ヨハネ5:39~40)「イエスの名によって(v31)」聖書に聴き主イエスを知り、主イエスと交わり、主イエスの御力に与っていのちを得、いのちに生かされ続けていくのです。
改めて「信じるため(v31)」「また信じて(v31)」と告げられていることを覚えたいのです。聖書に聴き主イエスを知り、信頼し始め、信頼し続けていくのです。トマスは「私の主、私の神よ(v28)」と信頼しました。「天下におのれ以外のものを頼るより儚きものはあらず。しかも、おのれほど頼りにならぬものはない、どうすればよいか(夏目漱石)」イエスを「キリスト」と信頼するとは、私は自分の罪の問題を自分でどうすることもできないが、あなたは私を赦し、私を造り変えてくださる救い主だと主イエスに身を委ねることです。信仰の歩みの中でもなお罪の課題が残っていますが、あなたはそんな私を捨てず取り扱い造り変えてくださる救い主ですと主イエスに身を委ねることです。イエスを「主」「神の御子」と信頼するとは、一つひとつの歩みを自分の知恵、努力、工夫のみでなすのでなく、主イエスがこの状況の中にも主権者としてともにおられ導いてくださっていると信頼しつつ自らの歩みをなすことです。信仰を持っていても、いつの間にか全てが自分にかかっているとし恐れや苛立ちとなることがありますが、自分で握りしめているものを手を開き主イエスの前に置き、主イエスの導きを求め出すことです。主イエスに先立っていただくことです。それは状況が変わって主イエスを信頼するのではありません。「見ずに信じる者たちは幸い(20:29)「信じるなら神の栄光を見る(11:40)」と聖書に聴き主イエスに信頼していくのです。その時にいのちの歩みをなし、神の栄光を見るのです。
守谷聖書教会歓迎礼拝説教要旨 2025/10/12
『獲得された真の平和』(イザヤ11:6-9) 斎藤 成美師
聖書箇所 イザヤ11:6-9
11:6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。
11:7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。
11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。
11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。【主】を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。
説教要旨
日本のいたる所で、クマ出没で悲しい悲劇が起こっている。熊が人里で人間と出会う。熊には「恐れ」があると共に、子どもを守ろうとする「攻撃性」がある。熊も人間もどちらも悪くない。ただ出会っただけ。そこに「悲劇」が生まれる。これが罪、この「づれ」が罪である。
ところが、聖書にはマンガみたいな事が書かれている。
Ⅰ解放された動物たち(イザヤ11:6-9)
動物界から敵意が一切なくなり、平和になる日が来るという。(7節)雌牛(めうし)と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子(しし)も牛のように藁(わら)を食う。クマから、人間対する敵意が無くなり、あの大きなザラザラした舌で、人間の顔を「ベア~」となめてくれる。気持ち悪いという感触があったとしても、もう怖れはない。(9節)わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず滅ぼさない。「主を知ることが」、海をおおう水のように地に満ちるからである。全被造物は、神の創造の目的、創造の秩序を改めて知る。新しくされた世界が存在する。
Ⅱこれは救い主イエス・キリストの十字架による(マタイ27:46)
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「わが神、わが神、どうして
わたしをお見捨てになったのですか」と。十字架は罪に対する神の裁き。外側に見えるのはイエスの哀れな姿。しかし、見えない世界・霊の世界では「すごい事」が。罪に対する神の燃える火ような怒り。神は人間の身代わりとなった御子に対して容赦なく刑罰を下した。神の御子は永遠に見捨てられた。「永遠」は時間的により、質的に捕らえる。一瞬にして永遠の壮絶な見捨てに会う。そして、イエス・キリストの身代わりの死は完璧。神はそれを良しとされ、人間の罪を赦された。
Ⅲその結果 (イザヤ書44:22)
わたしは、あなたの背きを「雲のように」、あなたの罪を「かすみのように」消し去った。わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ。」
これは、紀元前681年頃の預言。十字架の救いまで、まだ600年以上もある。しかし、神は「消し去った。」と過去形で言う。神には一度発すると訂正はない。「発する」卽「事実」である。神は完全であるから。それ故に神の預言はいつも過去形で表される。
Ⅳ新しくされた人間 (Ⅱコリント5:17)
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」神の約束によれば、「新しく造られた人」が既に存在する。「キリストの十字架の死によって出来た罪のない清らかな新しい人」。今は、古き人がまだ存在するので、まだ「新しい人」の良さは分からない。信仰によって、ある人は見ることが許される。しかし、定められた日が来るとそれは実現する。あなたの人生を狂わせたあなたの一番の問題。どん底に落としたあなた自身の一番の問題。あなたを苦しめたあなた自身の弱さの罪問題。一生闘わねばならないあなたの罪性の問題。しかし、「新しいあなた人」が既にキリストによって存在する。私達は主にあって喜び、期待し、楽しみにして待ち望もう。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2025/10/5
『見ずに信じる人たちは幸い』(ヨハネ20:24~29)
聖書箇所 ヨハネ20:24~29
20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
説教要旨
復活された日の夕、主イエスがユダヤ当局を恐れていた弟子たちに現われ神の祝福に与らせ罪の赦しを告げる使命を託された時、十二弟子の一人トマスは一緒にいませんでした。(v24)トマスは熱血的で真っすぐな人物でした。(11:16)(14:5)トマスはたまたまいなかったというよりも主イエスの十字架の死に落胆し弟子たちの交わりから距離を取っていたのでしょう。トマスは弟子たちの「私たちは主を見た(v25)」との言葉に対し「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません(v25)」と強く言いました。他の弟子たちの認識の甘さを指摘しているようでもあります。
主イエスは次の日曜日再び弟子たちに現われました。今度はトマスも一緒でした。戸には鍵がかけられていました。弟子たちは一週間前復活の主に出会い喜んだのでしたが(v20)、恐れの中に戻っていたのです。主イエスはその弟子たちに再び「平安があなたがたに」と神の祝福に与らせました。続いてトマスに向かわれました。トマスの一つひとつの言葉を聞いておられたかのように一つひとつなぞるようにして仰せられました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい(v27)」トマスの落胆、頑なになっている部分、迷い、真実への求めを主イエスは全てご存じであられたのです。そして仰せられました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい(v27)」トマスは告白しました。「私の主、私の神よ(v28)」続いて主イエスは「あなたはわたしを見たから信じたのですか(v29)」と叱責ではなく、出会って信じたとの事実を確認せられました。でも主イエスを直接に見ることができない時代が直ぐに来ることを覚え「見ないで信じる人たちは幸い(v29)」と語られました。復活を見た弟子たちの証言、聖書によってイエス・キリストを信頼していく幸いを語られたのです。
①主イエスはまことに愛なるお方です。信仰を求めておられる者には「信じない者ではなく、信じる者になりなさい(v25)」と御言葉をもってご自身への信頼に招かれています。神の赦しと永遠のいのちに招かれています。クリスチャンに向かっても語られています。一週間の歩みの中で恐れや罪の思いに幾度も戻ってしまう私たちを幾度もご自身への信頼に御言葉をもって立たせようとしてくださいます。②私たちの歩みを考えたいのです。トマスは主に出会ったという弟子たちの中に独り居ることは居心地が悪かったでしょう。でもトマスは弟子たちの交わりの場に一緒にいたのです。「信じていないのに、分からないのに、礼拝式にいて良いのですか」とおっしゃる方があります。そのまま礼拝の場にいていただきたいと願います。信仰者も主への信頼を失うような時を通らされることがあります。しかし主イエスは信仰の迷いを決して蔑むことなく、私たちの歩と合わせ、御言葉をもってご自身を現わしご自身への信頼に導かれようとされます。礼拝に私たちを招かれるのです。ですから教会の礼拝と交わりの中に身をそのまま置き主の導きを待ちたいと願います。一方で弟子たちはトマスがいられる対応をなしました。信仰を求めている方や信仰の迷いがある者もそのままいられる教会でありたいと願います。③この主イエスの導きの中で御言葉は語ります。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない(詩篇95:8)」今御言葉があなたに語られているならば主の招きに応え、主を個人的に信頼し告白し洗礼の恵みに与っていただきたいと願います。信仰者は今御言葉があなたに語られているならば主イエスへの信頼と従順に新たに立ちたいと願います。そして主ご自身が願われている永遠のいのちをいただき、永遠のいのちに生かされ、「幸いだ」という神の豊かな祝福の中を歩み出し、歩み続けていきたいと願います。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2025/9/28
『平安と派遣』 (ヨハネ20:19~23)
聖書箇所 ヨハネ20:19~23
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
説教要旨
マグダラのマリアは弟子たちのところに行き「私は主を見ました(v18)」と告げました。弟子たちはそんなことは信じられなかった、半信半疑であったことでしょう。その日の夕方となりました。弟子たちがいたところではユダヤ当局の手が及ぶことを恐れて戸に鍵がかけられていました。固く戸を閉じて自分たちを守っていました。弟子たちは恐れの中に閉じこめられていました。主イエスを捨てて逃げた悔いもあったことでしょう。ずっと従ってきた主イエスが十字架にかけられ失った失望もあったことでしょう。人は様々な恐れの中に歩んでいます。人への恐れ、日々起こってくる一つひとつの出来事への恐れ、死への恐れがあります。また自分の至らなさに意気消沈することもあります。神に信頼し祈り歩んでいますが、この世の力が神の力以上に見えて神への失望の中に置かれることさえあります。
そうした弟子たちの中に復活された主イエスは入って来られ、立ち、仰せられました。「平安があなたがたにあるように(v19)」これはユダヤ人の通常の挨拶です。しかし、挨拶以上の意味合いがあったでしょう。(v21、v26)「平安」とはギリシャ語で「エイレネー」ですが、それは旧約聖書のヘブル語の「シャローム」を受け継いでいます。シャロームは神との平和に基づいた人間関係の平和、肉体的・精神的穏やかさ、生きる喜びや心の安らぎというような神の祝福が満ちた状態を表しています。それは「こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された(v20)」とあるように、主イエスが十字架で私たちの罪の身代わりに死なれ、死に打ち勝ち復活されたことにより成し遂げられた救いの御業に基づく神の祝福でした。主イエスを裏切った弟子たちに対する赦しの言葉でした。ユダヤ当局を恐れる弟子たちへの「わたしはあなたがたとともにいる」との約束の言葉でした。罪の世と死に打ち勝った勝利の言葉でした。弟子たちは「主を見て喜んだ(v20)」のです。主イエスは今日もこの礼拝において恐れや失意の中に閉じ込められている私たちのところに「来て」、教会の真中に私たち一人ひとりの傍らに「立って」、「平安があなたがたに」と語り、その祝福に与らせてくださいます。この状況のどこにとの思いの中におられるかもしれません。でもそういう私たちのところに来て、私たちの思いや苦しみの側に立って「恐れるな、わたしはあなたとともにいる」と仰せられています。その御言葉に聴いていきたいと願います。
主イエスは弟子たちにご自身の平安を与えられた後、彼らを世に遣わすとの使命を告げられました。(v21)派遣にあたって聖霊を受け取るよう告げられました。(v22)使命の具体的内容を告げられました。(v23)弟子たちに委ねられた使命は罪の赦しに関わる務めでした。これは教会が人間の罪の赦しと裁きを決定する権利を持っているということではありません。人間を赦しまた裁くことは神ご自身がなされることです。弟子たちがなすべきことは聖霊によって神の赦しと裁きを告げ知らせることです。教会がイエス・キリストを伝えることによって神の赦しをもたらすことになるのです。しかし拒絶する者たちは神の赦しを失うことになるのです。チラシ配布、コンサートにお誘いする…。それだけではなく私たちは「キリストの香り(Ⅱコリント2:15)」です。主イエスの証し人としてこの週新たに派遣されていきます。但し主の証しということにおいて覚えたいのです。「平安があなたがたにあるように(v19)」に続いて派遣の言葉でも良かったはずですが、派遣の前に再び主イエスは「平安があなたがたにあるように(v21)」と仰せられました。十分主イエスの愛と祝福を受けましょう。手を広げて受け取りましょう。その上で主の愛と祝福をもたらす証人として遣わされていきましょう。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2025/9/7
『なぜ泣いているのですか』(ヨハネ20:11~18)
聖書箇所 ヨハネ20:11~18
20:11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
20:13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。
説教要旨
マグダラのマリアは墓の外にたたずんで泣いていました。主イエスを十字架で失い、亡骸さえもどこかに行ってしまいました。悲しみに満ち、途方に暮れ、泣くことしかできませんでした。私たちもただ涙が出、望みを抱けない状況の中に置かれることがあります。頼りとしていた人を失う、信頼関係を失う、穏やかな日々を失う、健康を損なう…。マリアは“独り”でした。独り悲しみや苦しみの中に置かれるのです。
そんなマリアが独り泣きながら、墓の中を覗き込むと、二人の御使いがおりました。(v13)彼らは「女の方(v13)」と女性への一般的な呼びかけで呼び、「なぜ泣いているのですか(v13)」と悲しみの理由を問い問わせました。復活された主イエスも墓の外に立っていましたが、彼女は気づきませんでした。主イエスも「女の方」と呼び、涙の理由を問い問わせ、さらには「だれを捜しているのですか(v15)」との尋ねを加えました。主の復活を全く考えておらず、物体としての亡骸を失ったことを悲しんでいるマリアに「何を」ではなく、「だれを」と尋ね、ご自身の復活に気づかせようとされたのです。でもマリアの心の眼は閉ざされたままでした。(v15)主イエスはそうした彼女の名を呼ばれました。「マリア(v16)」マリアの悲しみをすべてご存知で、その悲しみと悲しみの根である主への不信頼から連れ出すようにして「名」を呼ばれたのです。彼女ははっと心の眼が開かれ、主イエスだと分かり、答えました。「ラボニ(v16)」マリアは喜び主イエスの足にすがりつきました。主イエスはしばらくして彼女に告げました。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです(v17)」マリアは主イエスを「先生」と呼びました(v16)。主イエスは十字架で死なれ、復活され、永遠のいのちをもたらす救いの御業を成し遂げられ、主イエスの御思いは天に昇り、聖霊を送られ、人々を「永遠のいのち」に与らせることでした。だからそれを妨げるようにして「すがりついていてはいけません(v17)」と仰せられたのです。マリアに、今までの「先生」という人間的な交わりではなく、聖霊を遣わし、永遠のいのちをもたらすことを教え、その永遠のいのちの交わりに与らせようとされたのです。「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します(10:3)」「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです(10:10)」「それぞれ名を呼んで(10:3)」です。ダビデは「主は私の羊飼い(詩篇23:1)」と「私の」と歌いました。主イエスは私のすべてを真にご存じで名を呼び、悲しみと不信頼から連れ出し、日々の歩みに助けを与え、聖霊によってこの世の苦しみの中で永遠のいのちに生かし続けてくださるのです。人は朽ちていきます。頼りとしていたものを失うこともあります。しかし、主イエスは朽ちないお方です。主イエスは死に打ち勝ち復活され、いのちの日の限り、そして死の時もともにおられ、天の御国に私を導き入れ、天の御国においては私の涙をことごとく拭い取ってくださるのです。(ヨハネ黙示録21:4)
主イエスは、いのちの主といのちにマリアを与らせ、そのいのちの主といのちを弟子たちに伝えるよう託されました。マリアは主の仰せの通りになしました。マリアは2節では弟子たちに「主の不在」を告げましたが、18節では「主が生きてともにおられること」を告げたのです。主イエスは、私たちにいのちの主の証しを託してくださっておられるのです。
「なぜ泣いているのですか」主イエスは私たちの涙を十分に知りつつ、ご自身が生きてともにおられることを語りかけ、その涙から連れ出そうと名を呼んでくださっておられ、いのちの道へと導き続けてくださっておられます。私の羊飼いである主イエスに感謝をささげ、主に信頼し、そしてその羊飼いなる主イエスの証しに生きていきたいと願います。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2025/8/31
『まだ理解せず』(ヨハネ20:1~10)
聖書箇所 ヨハネ20:1~10
20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」
20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。
20:6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。
20:8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
20:10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。
説教要旨
マグダラのマリアをはじめ女性たちが日曜日の早朝まだ暗いうちに主イエスが埋葬された墓にやって来ると、墓から石が取りのけられているのを見ました。(ギリシャ語ブレポー:目に入る)マリアは墓荒しにあったと思い、弟子たちにその旨を伝えました。ペテロとヨハネは墓に走って行き、ヨハネが先に着きました。足の速さや年齢を表しているのではないでしょう。主イエスを三度拒み、主イエスを十字架で失い、ユダヤ指導者たちを恐れるペテロの心の重さが表れていたのでしょう。ヨハネは先に着きましたが、身をかがめ、亜麻布が置いてあるのが見えましたが(ブレポー)、墓の中には入りませんでした。ペテロは遅れて来ると、墓に入り、同じく亜麻布が置いてあるのを見ました。(セオーレオー:探る)イエスの体を巻いていた亜麻布はそのまま置いてあり、イエスの死体がすっぽり抜けたままのようになっていました。墓荒らしではないとペテロは亜麻布を確かめ、思ったことでしょう。ヨハネも後に墓に入ってきて、その亜麻布を「見て(エイドン:肉眼で見る)、信じた(v8)」のです。ヨハネは恐らく「イエスはよみがえられた」と信じたのでしょう。でも確信までは至らなったようです。ペテロに何も話しておりません。(21:7参照)ペテロとヨハネは、聖書が約束していた神の贖いのご計画が成し遂げられることのしるしとして主イエスが復活しなければならないことをまだ理解しておらず、主イエスが復活されたとの信頼、また確信へとは至っていなかったのです。(v9)
そして自分たちのところへ帰っていきました。(v10)主イエスを捜し求めず、ただ自分たちの世界、恐れの中に戻っていったのです。(v19参照)一方、彼らとは対照的にマリアはそのところに泣きながらそのままいました。(v11)主イエスを捜したのです。「からだをかがめて墓の中をのぞき込み(v11)、御使いを見(v12、セオーレオー)、イエスを見ました。(v14、セオレオー)そして、復活の主イエスを見たのです。(v18、ホラオー:出会う、交わる)ヨハネは、自分は確かに先に墓に着き亜麻布が見えた、でもそれ以上は墓の中には進んで行かなかった、ペテロは心が重い中で墓に入り亜麻布を見て探り求めたが、自分はそうしなかった、そして亜麻布をこの目で見て復活が起きたかもしれないと思ったが確信には至らなかった、でもそれ以上留まって主を捜さずに自分たちのところへ帰ってしまった、そんな自らを言おうとしているのでしょう。
ここには私たちの信仰の在りようが教えられています。私たちは日常の歩みにおいて様々なことを経験します。小さなことから大きなことまで主がそこにはおられないような状況の中に置かれることがあります。自分の願いや計画とは違うような中に置かれることがしばしばあります。それを目にします。その状況が見えます。辛いことです。直ぐにでも解決を願います。しかし一向に苦しみや見える状況は変わらないのです。そういう中で私たちはどう歩むのでしょうか。目に入ってくるもの、見えるものを追っていき易い私たちですが、そうではない歩みが求められているのです。御言葉に聴き、御言葉に探り求めていくのです。泣きたいのに泣かず、分からないのに分かるようにするのではありません。聖書を開き、礼拝説教に聴き、「主よ、お語りください」と求め、「主よ、どういうことでしょうか」「何をお教えになろうとされているのでしょうか」と主に肉薄していくのです。その歩みに復活された主イエスは出会ってくださいます。気づきを与え、主の慰め、喜び、御力を与えてくださいます。見えてくるもの、見える状況の中でのこの週の歩みがあります。その中で御言葉に聴き、主と主の御心を切に求めていきましょう。主をより知っていく幸いの中に生かされていく9月でありたいと願います。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2025/8/24
『主イエスの葬り』(ヨハネ19:38~42)
聖書箇所 ヨハネ19:38~42
19:38 その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。
19:39 以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。
19:40 彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。
19:41 イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。
19:42 その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。
説教要旨
主イエスは十字架に架かられ死なれました。当時のユダヤ社会において「木にかけられた者」は神に呪われた者の死であり、その亡骸は粗末に扱われました。そういう状況の中でアリマタヤのヨセフという人物が主イエスの亡骸の引き取りをピラトに願い出ました。またニコデモも埋葬のために沢山の量の高価な没薬と沈香を混ぜ合わせたものを持ってやって来ました。主イエスはユダヤ人の埋葬の習慣に従って香料と一緒に亜麻布で巻かれ、エルサレムの園のまだ誰も葬られたことのない新しい墓に葬られたのです。当時、誰しもがエルサレムに墓を持つことを切望していましたが、そうできた者は有力者のみでした。また園に葬られるのは王であったことを旧約聖書は告げます。そして誰も葬られたことがない新しい墓とは神の働きのために特別に取り分けられた墓を表しました。十字架に架けられた囚人が埋葬されるのとは天地の差でした。「名誉ある葬り」「王の葬り」でした。その王とはこの世の政治的王ではなく、人に罪の赦しと永遠のいのちをもたらす王でした。
主イエスが丁重に葬られるようになったのは、ヨセフとニコデモによりました。ヨセフはユダヤ最高議会の議員でした。ある時イエスの弟子となりましたが、ユダヤ人を恐れ、自分が弟子であることを隠し続けていました。ニコデモも同様でした。(ヨハネ12:42~43)しかし、そういう彼らが主イエスの十字架を見たのです。十字架を負っていかれるお姿、嘲られ、罵られ、そして渇き、しかし力強く「完了した」と叫ばれたお姿。彼らは十字架の死が贖罪の死であったとの理解はなかったでしょう。でも主イエスの十字架の死に神聖なものを感じたのではないでしょうか。そしてゼカリヤ書12章の預言通り、主イエスの弟子であることを隠してきた卑怯な自分の罪を悲しんだのでしょう。そしてどんなに議員の立場が危うくなろうとも押し出されて主イエスの弟子であることを公にし、埋葬を申し出、丁寧になしたのです。主イエスの十二弟子たちは引き取りに来ていないのです。十字架において神の贖いの業が成し遂げられ、ヨセフとニコデモは主イエスの十字架の死と聖霊によって新しくされ、人の栄誉よりも神の栄誉を求める者となっていったのです。
イエス・キリストの十字架の救い、そして聖霊は私たちを深く内から造り変えていきます。私たちは信仰と世の間で中途半端な態度を取ってしまうことがあります。クリスチャンであることを鮮明にできない弱さや痛みもあります。でも主イエスの十字架を見つめ、このお方と共に歩んでいくとき、聖霊の働きの中で主イエスの証人として変えられ、その御力に押し出され勇気をもって歩むことができるのです。命じられ自分でなすのではなく、押し出されていくのです。ですから主イエスの十字架のもとに立っていること、聖霊の働きに日々身を委ねていくことが私たちの信仰の歩みの土台、中心です。また私たちは家族の救いや信仰継承のことを祈っていますがその実が見えて来ないことがあります。また教会のある人を見て信仰が中途半端であるように見え、この世と同じような価値観や考え方のみで生きているように見え、裁いた目で見てしまうことがあります。でも、かつては自分自身が全くそう歩んでいました。でも、主がお育みくださった聖めの恵みを忘れて裁いてしまうのです。確かにヨハネ福音書9章には目の見えない人が主イエスの救いに与り即ユダヤ指導者を全く恐れなかったことが記されています。それと同時に同じヨハネ福音書はユダヤ人を恐れ主の弟子であったことを隠していたヨセフやニコデモが少しずつ変えられ、ある時に弟子たちも果たせなかったここぞの働きをなしたことを告げているのです。主は立たせてくださるのです。主は立たせてくださっているのです。それを信頼し、背後で祈り続けていく者でありたいと願います。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2025/8/17
『神の大きなみわざ』(ヨハネ19:28~37)
聖書箇所 ヨハネ19:28~37
19:28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
19:29 酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。
19:31 その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た。
19:32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた一人目の者と、もう一人の者の脚を折った。
19:33 イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。
19:34 しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。
19:35 これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。
19:36 これらのことが起こったのは、「彼の骨は、一つも折られることはない」とある聖書が成就するためであり、
19:37 また聖書の別のところで、「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る」と言われているからである。
説教要旨
主イエスは十字架上でいよいよ御自身の終わりを覚えつつ、「わたしは渇く(v28)」と仰せられました。肉体的渇きであるとともに、神に裁かれ神との交わりを失う恐ろしき霊的渇きでした。主イエスが「渇く(v28)」と告げた時、兵士たちはイエスを嘲り、蔑む行為をなしました。酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付け、イエスの口もとに持っていきました。重さでたわみ、飲むことができるかできないかのところで面白がったのです。また、ぶどう酒は“酸い”ぶどう酒で、渇きを助長させました。人間の恐ろしいまでの「罪性」「罪の深さ」が示されています。しかし、主イエスはそういった恐ろしき人間の罪を完全に負い切られ、神の裁きを身代わりに受け通され、「完了した」と神の贖いの業を成し遂げられたのです。全人類の贖いの御業が成し遂げられたのです。
神の贖いの御業が完了したことのゆえに、イエス・キリストが人間にもたらしてくださったものがあったことが続いて示されていきます。ユダヤ指導者たちは律法に従い、翌日まで死体を十字架につけたままにしないようにするために足の骨を折って死を早め取り降ろしてほしいとピラトに願い出ました。(v31)兵士たちはイエスとともに十字架につけられた他の囚人たちの足の骨は折りましたが、主イエスのところに来ると、明らかにすでに死んでおり、骨を折ることはしませんでした。しかし兵士の一人は死を確認するためだったと思われますが、イエスの脇腹をやりで突き刺しました。主イエスの中から「血と水(v34)」が出て来ました。ヨハネは、この一連の出来事について、自らは目撃者であり、真実を語っていると告げ(v35)、それは「あなたがたも信じるようになるため(v35)」と強調しました。そして聖書の預言の成就であるとしました。(v36~v37)骨が折られなかったのは、イエスの義(詩篇34:19)とイエスが過ぎ越しの御業における子羊(出12:46、ヨハネ1:29)であることを示しました。主イエスは血を流し「罪の赦し」を私たちにもたらしてくださったのです。また、ヨハネは「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る(v37)」とのゼカリヤ書12:10の預言を挙げ、聖霊が降ること、また「罪と汚れのきよめの一つの泉が開かれる(ゼカリヤ書13:1)」ことが成就したとしました。主イエスは水、即ち「永遠のいのち」「聖霊」を私たちにもたらしてくださったのです。
主イエスの十字架の死により「罪の赦し」と「永遠のいのち」の救いの土台は据えられました。救いにおいて私たち人間の側から付け加えることは何一つないのです。イエス・キリストを救い主と信頼するとき、罪の赦しと永遠のいのちを受けるのです。そして、クリスチャンはこの完了した贖いの御業のゆえに罪の赦しを確信し、そして罪赦されたゆえに罪を離れ、罪と戦い、神の前に相応しくない思いや言葉や行為を正直に神に告白し、主の赦しの中を歩み続けていきます。また、開かれた「罪と汚れのきよめの泉」から、いのちの水を汲み続けていきます。「泉」ですから汲んでも尽きないのです。前回の箇所との兼ね合いから言うならば、ヨハネはマリアを引き取りましたが(v27)、主の教会に仕えていく力、弱さを覚える者や苦しむ者を負っていく愛と忍耐をいのちの泉から受け続けていくのです。私たちの信仰は充電式ではなく、絶えずコンセントにつながっている歩みです。
主イエスは大声で私たちを招かれています。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります(7:38~39)」神の贖いの御業によってもたらされた「罪の赦し」と「永遠のいのち」「聖霊」を受けていきたい、受け続けていきたいと願います。
守谷聖書教会歓迎礼拝説教要旨 2025/8/10
『世に神の愛は在るのか?』(創世記1:24~31) 斎藤成美師
聖書箇所 創世記1:24~31
1:24 神は仰せられた。「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ。」すると、そのようになった。
1:25 神は、地の獣を種類ごとに、家畜を種類ごとに、地面を這うすべてのものを種類ごとに造られた。神はそれを良しと見られた。
1:26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。
1:30 また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。
1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。
説教要旨
先週は広島と長崎の原爆記念式典があった。今世界では戦争や殺し合いが展開している。また、自然災害(山火事、洪水、陥没など)で悩まされている。それでなくても、日々個人個人の事故、災難、試練で悩まされているのに。この世に神の愛は在るのか?と思わされる。
私達の住む地球の成立は「進化論」で説明され、それが真理のようになっている。しかし、聖書は「この地球の全て良いものは、神がお造りになられた」と強調され、聖書の最初に創世記という書物で説明されている。しかし、その地球に人間を通して罪が入り、全体が狂わされ、ものによってはその形さえ変えてしまった。しかし、そんな中でも、罪の中に居る私たちにも理解出来る部分がある。それが「自然界」である。
神は、全て必要なものを創造し、最後に人間を造られた。その事自体も神の愛の表れであるが、次の聖句に注目したい。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる」(創世記1章29、30節)。植物の種って、どうしてあんなに多いのだろう。それは、子孫
繁栄の為と動物たちの食料の部分を植物が受け持つからだ。罪が入ってからは草を食べなくなった動物もいるが、基本は草食である。植物が動物に与えるように、神は制定された。「無償で与える」は「愛」である。すなわち、愛の神がお造りになった地球は愛に満ちていた。無から偶然に出来たのではない。愛の造り主を覚えて初めて納得が行くのである。
イエスさまは、スズメを例えにして話された。マタイ6:26、「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます」スズメが餓死した話はない。シナイ山は、茶褐色のいくつかの岩山で出来ていて、雨が降らないから植物が育たない。ところが鳥が飛んでいる。岩山の窪みに水がわずかに貯まりそこに僅かな草が生える。そしてタネを稔り、鳥に提供している。神の創造の原則が成立されている。
夏場に現れ、人にはうるさがられるセミは、主に桜の樹に卵を産みつけると、1年後幼虫となり樹から下り地中に入り7年間という長い年月を過ごす。その後成長し殻を持った幼虫は、穴を掘り地上に出て桜の樹を登る。そして、時が来ると背中の部分が破れ、成虫が出て来る。時間をかけて羽を延ばし完成する。夜のうちに行なわれる。朝方になると泣き出す。「日暮らし」というセミは、羽根が透き通って美しく、鳴声も美しい。セミは雄だけが鳴き雌は鳴かない。雄が求愛して鳴く。セミは成虫になって約一週間で一生を終える。セミの役目は何か?地中に居る時から、樹液を吸い桜の樹の成長の助けているという。自然は神の愛と恵みと分かち合いでいっぱい。自然界が私たちの気持ちを癒してくれるのは、まだ神の愛が存在するからである。自然界は、そうでない部分もあるが、神の愛のメッセージに満ちている。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2025/8/3
『十字架のもとに』 (ヨハネ19:23~27)
聖書箇所 ヨハネ19:23~27
19:23 さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。
19:24 そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。
19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
19:27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。
説教要旨
主イエスの十字架の下には「ローマ兵士たち」と「主に従ってきた女
性たち」がいました。ローマ兵士たちはイエスを十字架につけると、衣
を取り四つに分け、各自に一つずつ渡るようにし、下着は縫い目のな
い物であり裂かないでくじ引きをすることとしました。上着や下着は役
得でお金となりました。彼らは大きさに違いがないように衣を分けること
に集中し、少しでも大きなものを取ろうとしていたことでしょう。また誰に
くじがあたるかと興じていたことでしょう。しかしその中で神の救いのご
計画が着々と進められていたのです。(v25)ローマ兵士たちは主イエ
スに無関心で、上着や下着のみに心が向いていました。目に見えるも
ののみに心が向き、神に無関心である「世」が表されています。
その一方で、主イエスを慕い求めていた女性たちが同じく十字架の下におりました。「教会」が示されています。主イエスは母にヨハネを見させ「あなたの息子です」と言われ、ヨハネにマリアを見させ「あなたの母です」と告げ、ヨハネはマリアを自分のところに引き取りました。主イエスは十字架上で肉体的にも精神的にも苦しみの極みの中で自分ではなく、母マリアの苦しみに心が向けられていました。但しこれはただ主イエスの母マリアへの肉親の愛を表しているのではないでしょう。主イエスはマリアを「女の方(v26)」と呼ばれました。血の繋がりのないヨハネとマリア、それが主イエスの十字架の御業の中で一つキリストにある交わりが形造られることが表されていたのです。ヨハネはマリアを受けた、マリアの歩みを負った、苦しみをともに苦しんだのです。教会はローマ兵士たちの交わりと対照的です。ローマ兵士たちは主イエスに無関心で「衣」を取ったのです。(「取る」はマリアを「引き取る」と同じ言葉)心と心、彼らの歩みそのものが共有される交わりではありませんでした。教会は主イエスを仰ぎつつ互いの心と歩みが共有され祈られていく交わりです。聖書が次にヨハネとマリアを一緒に記しているのは祈りの場面でした。(使徒1:13~14)
クリスチャン、教会の歩みについて二つ覚えさせていただきたいのです。ローマ兵士たちは主イエスの十字架に無関心で富にのみ心がありました。クリスチャンは主イエスの十字架に全く無関心ということはないでしょう。でも、経済的なこと、仕事のこと、家族のこと、起こって来る出来事で思い煩い、心配し、そこにのみに心が向いてしまうことがあるのではないでしょうか。主イエスはそうした私たちの葛藤、戦い、思い煩いをご存知で、私たちのまことの祝福を願って仰せられています。「…まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。…(マタイ6:31~34)」主との関係の祝福がこの世における具体的な生活の祝福と守りに繋がっていることを覚えたいのです。第二に教会は主イエスを仰ぎつつ互いを顧み、互いの歩みを受け取り、祈り合っていく交わりであることを覚えたいのです。教会はヨハネがマリアを引き取ったように、互いの痛み、歩み、弱さを自分のものとして受け取って祈り覚えていきます。それが私たちが願い目指していく姿です。では、どのようにしたら「人を顧みる」「人の歩みを担っていく」「弱さを担っていく」人となることができるのでしょうか。私たちは自分自身の事でも重荷があります。そうしなさいと言われてもできないでしょう。ヨハネは十字架の下に立っていました。主イエスは父なる神との交わりの中で最も苦しい時に自分の痛みに思いが向いていたのではなくマリアの痛みに思いが向いていました。主の十字架を仰ぎ神と交わりにおいて魂が神の恵みと慰めに満たされ、心にゆとりが与えられ、そのような歩みをなしていくことができるのです。『たましいの慰め 心の余裕(堀肇)』です。
