守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/5/31
『敵を愛する』 (マタイ5:43~48)
聖書箇所 マタイ5:43~48
5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5:45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
5:46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。
5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。
5:48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。
説教要旨
主イエスは律法学者たちが「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め(v43)」と教えていた中で「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(v44)」と教えました。「愛する(v44)」とは相手に益をなし建て上げることです。敵を愛し、福福を祈れと。
その歩みこそ神の子どもとなったしるしであると(v45)。それは父なる神がそのようなお方であられ、ご自分を無視し逆らう者にも太陽を昇らせ雨を降らせてくださっているのです。(v45)いいえ、そればかりか、父なる神はそういった神の恵みに感謝することなく自分で生きているとする高慢な私たち人間を正しく怒られ、しかし今神の祝福を失っていることと将来を思って心裂かれるように悲しまれ、忍耐され、独り子イエス・キリストをこの地にお与えになられ、私たちの罪をすべて背負わせ、私たちの身代わりに裁かれ、罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださいました。即ち愛してくださったのです。子どもは親の性質を受け継いでいくのです。さらに続いて主イエスは神の子どもとされている神の恵みに訴えています。(v46~v47)この言葉は、弟子たちを責めるようなニュアンスではありません。「あなたがたは神の子どもなのだから愛してくれる人を愛するのでは十分ではない。あなたがたは父なる神を知らない者と違うはずだ。敵する者を愛する者であるはずだ」と。「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい(v48)」「完全(v48)」との言葉は「成熟した」「円熟した」とも訳されます。「ありなさい(v48)」とは未来形で、約束の伴うもので、そういう者となっていくはずだというニュアンスがあるのです。
この主イエスの教えについて三つ覚えていきます。第一に主イエスは「敵を好きになれ」と仰せられたのではなく、「敵を愛せ」と仰せられました。愛するとは相手に益をなすことですが、心情も含まれますが、中心は意志的行為です。44節では愛することが祈ることだとされています。45節では天の父なる神の行為が語られています。46節と47節では愛することが挨拶することとなっております。私たちは「愛する」というと「心情」のことを真っ先に思います。しかし、そうではありません。「愛する」とは意志的行為が中心です。心に何のわだかまりもなく挨拶ができれば勿論良いのですが、心に痛みがあるが、その感情を超えて挨拶をすることは愛することです。第二に主イエスは父なる神と父なる神の子どもということに焦点を特別に当てております。敵を愛する基盤はイエス・キリストを信じ神の子どもとなることです。人の内には「自然の愛」はあります。自分を愛してくれる人を愛する愛はあります。いいえ、それしかないのです。いいえ、それさえも相手の一つの言葉でいとも容易に変わってしまいます。まして敵を愛する愛は私たちの内には全くありません。それは愛なる神から来るのです。(Ⅰヨハネ4:7、Ⅰコリント14:1)神の子どもとせられ、神と交わり、神の愛を祈り求め続けていく中で、感情が癒えないことがあったとしても敵に益をなしていく者と造り変えられていくのです。第三に主イエスは敵を愛することは「〇〇さんを祝福してください」と祈ることだと仰せられました。そんなことはできない、祈りにおいて名前も出したくないと思うかもしれません。でも、愛は意志的行為です。心情が伴わなくても祝福を祈り始めます。すると不思議です。多くの信仰者が証しています。その人に対する私の思いが何か変えられていくと。祈る、そこに聖霊が働かれ、神の恵みを受けていくことになるのです。「自分の感情を超えてそのように祈っていると、神さまは聖霊によって私たちに働きかけてくださり、そのうち私の心の中の敵対心が消えてきて、祈っていることばが本当の自分の気持ちになってくるからです(河野勇一牧師)」
守谷聖書教会聖霊降臨記念礼拝説教要旨 2026/5/24
『聖霊に従って歩む』(ローマ8:1~5)
聖書箇所 ローマ8:1~5
8:1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
8:3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
8:4 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
8:5 肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
説教要旨
8章はローマ書の頂点と言われ、パウロは壮大な神の救いのご計画を牧会的に記しています。8章は7章を受けています。パウロは自分のことを述べます。自分は善をしたいと絶えず思っているのに、したいと願う善を行わないでしたくない悪を行っていると。(7:14~15)(7:18~19)パウロは嘆き叫びます。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか(7:24)」これは私たちの嘆きでもあります。クリスチャンは神の御子イエス・キリストが十字架で成し遂げられた救いの御業のゆえに罪赦され、罪の支配から解放されました。しかし、なお、罪の戦いがあり、時に罪に打ち負け、嘆きます。しかし、パウロは嘆きの直後に感謝を叫びます。「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します(7:25)」
どうして感謝なのか。パウロは救いの原点に立ち返っています。罪との戦いがあり、時に罪に打ち負ける。でもイエス・キリストのゆえに罪に定められること、義認が取り消されることは決してないと。(8:1)またクリスチャンは罪の支配から解放されたのだと。(8:2)なぜか。神は御子イエス・キリストを私たちと同じような肉をもった人としてこの地に遣わし、御子イエス・キリストの十字架において私たちの罪(原罪)を処罰されたからです。(8:3)
そして、神がイエス・キリストにおいて罪を処罰されたのは、罪の赦しと罪からの解放のためだけではなく、私たちが律法、神の御心である神を礼拝し隣人を愛する者となるためでした。「律法の要求が満たされるため(8:4)」どう神の御心に従う歩みをなしていくことができるのでしょうか。「御霊に従って歩む(8:4)」聖霊に従っていくときに神の御心に生きることができるのです。聖霊は私たちの内に住み、神の御心に生きることができるように絶えまなく助けてくださっています。「聖霊の助け」は、スーパーマンのような助けではありません。「御霊も、弱い私たちを助けてくださいます(8:26)」とあります。「助けてくださいます」との言葉は「ともに」「代わって」「取る」という三つの言葉で出来た複合語で「一緒に重荷を担ってくださる」ということです。聖霊は私たちの罪のうめきを共有しともにうめき、神の御心に生きることができるように助けてくださるのです。しかしそれはただ受動的な歩みではありません。助けてくださる聖霊に私たちが能動的に従っていく歩みです。そして聖霊に従っていくとは、聖霊に心を向けて(意識して)生きることです。(8:5)神の御心に生きようと自分を意識するのではなく、相手を愛そうと相手を意識するのでもなく、聖霊に思いを向け続けていくのです。7章でパウロが述べた姿は、ただ自分の力で神の御心に従おうとする姿です。そこには嘆きがあります。しかし、助け主なる聖霊に従っていくときに罪に勝利していく歩みが与えられていきます。そこにはイエス・キリストのゆえの神への感謝があります。この聖化の歩みは直線的ではありません。螺旋階段のようだと言われます。同じような失敗がありながら、でも聖霊に従っていく歩みは自らが知らぬうちに徐々に深く造り変えられていくのです。そして神は神の作品として私たちを完成へと導いてくださるのです。(8:28~30)何と幸いな歩みでしょうか。
私たちはパウロがここで教えた通り聖化の歩みをなしていきます。罪の葛藤に自分を誤魔化さないで嘆きます。(7:24)しかし嘆きますが、絶望することはありません。神がしてくださった救いの御業の原点に立ち返ります。(7:25、8:1~3)そして、聖霊が私たちの内に住んでおられることを信じ、聖霊に心を向け続けて歩んでいきます。(8:4~5)その繰り返しの日々です。そうやって神の作品として完成へと導かれていくことを感謝し(8:28~30)、神に栄光を帰していきます。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/5/17
『右の頬を打つ者には左の頬も』(マタイ5:38~42)
聖書箇所 マタイ5:38~42
5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。
5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。
5:41 あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。
説教要旨
「目には目を(v38)」とはイスラエルの裁判に関する教えでした。裁判において、目の損害を人に与えたならば、同じ損害を目に受けねばならない罰に値すると定めたものです。法的にそう定めることによって被害者の加害者への無制限な報復に歯止めをかけるためでした。しかし、主イエスの時代、宗教指導者たちはこの教えを裁判の枠を超えて個人的関係の領域に適用するようにし、人々は個人的復讐を正当化する言い訳に用いていました。主イエスは教えられました。「悪い者に手向かってはいけません(v39)」自分に損害をもたらす者に仕返しをしない四つの事例を挙げられました。第一は手の甲で右の頬を打たれるという相手から最大の侮辱を受けた場合でも、仕返しをしない、それどころか、相手に左の頬を向けて寛容を示せと。(v39)第二は「借金の代わりに下着を渡せ」と訴えられたならば、気前よく「上着」まであげてしまえと。自分の当然の権利を主張しないようにと。(v40)第三は駐留していたローマ軍に労働に駆り出され「一ミリオン行け」と言われたら「二ミリオン行け」と。強いられても反抗しないどころか、相手が求める以上のことをせよと。(v41)第四は求める者には与え、借りようとする者に背を向けてはいけないと。損や犠牲をいとわないようにと。(v42)
しかし、私たちは思います。自分に損害を与える者に対し抗議しない、自分の権利を主張しない、強いられたままに行う、求め通りに与え貸す。主イエスはそんな生き方を教えておられるのでしょうか。主イエスご自身がこの説教通りには行動をなされませんでした。主イエスは十字架の前夜の裁判で、平手打ちをされた時には毅然と抗議されました。(ヨハネ18:23)主イエスの教えの根底にあったことは何だったのでしょうか?復讐心から解放され、善をもって悪に打ち勝っていくことです。「自由な愛」と呼ぶことができるでしょう。私たちは愛することにおいて本当に不自由です。相手がどのような態度をとるかにより、人を愛することができなくなる私たちです。復讐心から解放され、善をなしていく「自由な愛」なのですから、頬を打たれたならば、いつでも別の頬を出すとはかぎりません。ある時は忍耐し、ある時は赦し、ある時はたしなめ、ある時は抗議します。しかし、憎悪や対面から自由にされているのです。主イエスはそのような生き方をなされました。そして、主イエスの十字架の死こそがまさに善をもって悪に打ち勝ってくださった御業でした。主イエスはののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず、辱めをものともせずに、耐え忍ばれ、私たちに救いをもたらしてくださったのです。
このような善をもって悪に打ち勝たれた主イエスが同じような自由な愛へと私たちを招いておられます。そんなこと到底できないと思います。でも、それぞれの信仰の歩みを振り返っていただきたいのです。主に祈っていくと、これは決して自分の決意や力ではできなかったことをなすことができたとの経験があるのではないでしょうか。手向かう思いが消え去り、心に平安が与えられ、言い返さなかったばかりか挨拶ができた、愛の言葉をかけられた。主がともいてくださる平安、主に背中を押し出された行為、主の力に守られていく歩みです。そして私たちは相手の罪のゆえということだけでなく、相手の病や老いや障害のゆえに非常な戦いの中に置かれることもあります。誰にも頼れない、そして自分も力尽きた。しかし主はそこにある「強き助け」(詩篇46:1)です。
十字架で罪に勝利された主イエスに葛藤をそのまま話し、仕返しの力、怒りの力の棘を抜いていただきましょう。主イエスを仰ぎ、聖霊の助けを求め、自由な愛をいただき、真の幸いな歩みへと導かれていきましょう。主イエスの福音は私を救い、私を救い続ける神の力です。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/5/10 斎藤 成美師
『預言者の死と聖霊の働き』(Ⅰ列王記13:20~24)
聖書箇所 Ⅰ列王記13:20~24
13:20 彼らが食卓に着いていたとき、その人を連れ戻した預言者に【主】のことばがあったので、
13:21 彼は、ユダから来た神の人に呼びかけて言った。「【主】はこう言われる。『あなたは【主】のことばに背き、あなたの神、【主】が命じた命令を守らず、
13:22 引き返して、主があなたに、パンを食べてはならない、水も飲んではならないと言った場所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたの亡骸は、あなたの先祖の墓には入らない。』」
13:23 彼はパンを食べ、水を飲んだ後、彼が連れ帰った預言者のために、ろばに鞍を置いた。
13:24 その人が出て行くと、獅子が道でその人に会い、その人を殺した。死体は道に放り出され、ろばは、そのそばに立っていた。獅子も死体のそばに立っていた。
説教要旨
<確認>
十字架により罪の完全な赦しの中にある。イザヤ44:22
神は聖霊を送られた。使徒2:17-21
神の将来の計画は『復活』。
古き人を脱ぎ捨て、全てが新しくなる。テサロニケ4:16-17
今の時代は聖霊の時代。
罪の現実の闘いの世界で、聖霊の助けにより神の愛と恵みを沢山経験して、神を賛美する時。闘いの日々よりも、喜びと讃美の日々。
※どの様に聖霊に従うか?
=聖霊を正しく認識する。いつも一緒にいるおられる事を自
覚する。
=聖霊に期待する。疑いを棄てる。
<一つの事例> Ⅰ列王記13:1-25 紀元前931-910頃。
南王国の若い預言者が北王国のヤロブアム王の前に立った。ヤロブアム王は偶像崇拝の行事をやろうとしていたその時、預言者は
ヤロブアム王に神からの滅びを宣告した。王は幸にも悔い改めた。
神は刑罰を辞めた。神は悔い改めによわいお方。王は喜び、預言者を感謝の愛餐会に招いたが、預言者は断り、神からの「食べるな」との命令を話した。彼は別の道を通って帰路に着いた。
ところが、北王国のベテルの街に老いた預言者が住んでいたが、
その預言者がその話を聞くと、急いで若き預言者を連れ戻した。そして、「神の使いから声があった」と偽って彼に「食べさせた」。それなのに、食べている途中に、「あなたは神の命令を破った。あなたは先祖の墓には入れない」と言った。(食事の途中で神の本当の声を聞いて恐ろしくなったのだろう)南王国からの若い預言者はロバに荷物を積み出発しますが、途中でライオンに殺されてしまった。神の命令を最後まで守っていれば殺されずに済んだ。
なぜ老預言者「だました」のか?同じ預言者。信じられない。ここに罪が露見されている。預言者という衣を脱いだ「罪人人間の醜い心」が現れている。現代の政治家にも、普通人にも通じる姿である。当時のイスラエルは、北と南は仲が良くなかった。妬みがあった。そして、老預言者個人にも妬み、嫉妬、私欲がぁった。
なんで北の預言者に神は命じないのか?俺の懐に王からの御褒美が入ったはずだ。
<私のサタンの誘惑と聖霊の助け>
パソコン2台が壊れ、4月から元に戻すために闘っていた。今回の説教造りも出来なくなった。機械の破損ではない、私の操作からおかしくなった。あれこれと焦った。先回は手書きで原稿を作った。手書きが、年寄りの書き状態(年齢的震え)が邪魔をして心に向けてに語れなかった。ギリギリ説教の当日の早朝に奇跡的に直り、間に合ってパソコンで書けたが、出来上がったら、今度はメガネの問題。最大A版用紙に大きな文字にした。今回は絶え間なくサタンから誘惑が来た。「この説教はすべきではないか?」しかし、聖霊もまた心に励ましをくださった。「絶対間に合う!」、「絶対出来る!」。最終的には「アーメン、そうでした」ハレルヤ。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/5/3
『「はい」は「はい」』(マタイ5:33~37)
聖書箇所 マタイ5:33~37
5:33 また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
5:35 地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
5:36 自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。
5:37 あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。
説教要旨
「決して誓ってはいけません(v34)」但し主イエスは誓い自体を否定しておられるのではありません。(マタイ26:63~64、Ⅱコリント1:23)「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」、言葉が確かなものであると保証するために誓いを付け加える必要はない、その言葉だけで十分なものでなければならない、即ち「言葉の真実さ」を教えられました。
聖書は、特に教会の交わりにおいて「言葉の真実さ」を教えています。(エペソ4:15、25)偽りや言葉の不誠実さはサタンの働きから出ています。(v37)サタンは「偽りの父(ヨハネ8:44)」です。私たちの小さな偽りや一つの不誠実な言葉を用いて、教会内に不信感や猜疑心を生まれさせ、教会が建て上げられていくことを妨げようとします。神は初代教会においてアナニア・サッピラ夫妻の偽りを厳しく裁かれました。偽りによってこの世と変わらない人間的な教会が建て上げられることを断固拒否されました。私たちは教会において偽りなど言わないと思うかもしれません。でも、自分の意見を通すため「みんな」「いつも」といった言葉を用いて誇張して言うことがあるかもしれません。隣人のことを推測で誰かに告げることがあるかもしれません。自分を守ろうと弱さを取り繕ったり、咄嗟に偽りを言ったり、曖昧に答えたりすることがあるかもしれません。教会の隣人が神の言葉から離れこの世の価値観で生きているのに相手を恐れ喜ばせようとして忠告せず助長するような言葉を言うことがあるかもしれません。アナニアは正直に「生活の必要がありますので一部は取っておきました。これが最善の捧げ物です」とすれば良かったのです。サッピラは「偽りを言いました。お赦しください」とすれば良かったのです。自分の今の状態を正直に語る、過ちを認め謝罪する、それが教会を建て上げていくのです。
言葉の真実な者といかになっていくことができるのでしょうか。第一は神の前に自分を置くことです。私たちは神が私たちを導いてくださっておられることを見失い、自分がすべての道を決定しているとの思いとなり、人からの評価や明日の自分の立場を思い、偽りが出てしまう、正直さを失ってしまうのです。神は私たちを愛し導いてくださっておられます。そこに立つときに、自分の弱さを正直に認め、過ちを認め、偽りを捨て、真実な言葉が与えられていくのです。神を畏れる歩みにこそ真の自由があります。第二は、真実な主イエスとの交わりによります。主イエスは、ユダの裏切り、ペテロの主イエスとの関係を否定した偽り、宗教指導者の主イエスへの妬みを隠し民衆を惑わしているとの偽りの中で、ご自身は裁判の席でも真実を語られ、ご自身が語られたとおり十字架にお架かりになられました。特にペテロは他の誰かが躓いても命をかけて主イエスに従っていくと豪語しましたが、数時間後に主イエスとの関係を否定して偽り、しかももし自分が嘘をついているなら神に呪われてもよいと誓いました。しかし主イエスはそういう人間の偽りの罪を全て背負い、身代わりに償いとなるために十字架に架かられ、私たちの偽りの罪をすべて始末し、「悪い者(v37)」に打ち勝ってくださいました。「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである(Ⅱテモテ2:13)」後にペテロは復活された主イエスの愛の中で「あなたはわたしを愛するか」と尋ねられた時、「わたしはあなたを愛します」とは答えず、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えました。威勢の良い言葉ではありません。でも、誰かと比較することなく、ただ自らの弱さを認め、真実な言葉を語る者とせられたのです。真実な主は私たちを真実な言葉を語る者と育まれます。「私の口のことばと、私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。主よ わが岩 わが贖い主よ(詩篇19:14)」
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/4/26
『結婚の本質』 (マタイ5:31~32)
聖書箇所 マタイ5:31~32
5:31 また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。
5:32 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。
説教要旨
離婚に関する主イエスの教えの根底にあったことは、結婚は神が結び合わせたものであるということでした。(マタイ19:4~6)そんなことは古臭い、離婚も選択肢の一つだと考えるかもしれません。でも二人の関係を添い遂げていく覚悟にこそ神は祝福をもって夫婦の歩みを導かれ育まれるのです。結婚生活は後ろの扉を閉じて日々創り出していくものです。(エペソ5:21~33)互いに相手の下に身を置きます。その上で夫は妻のかしらです。夫と妻は対等な(平等な)存在です。と同時に夫婦の秩序において夫は妻のかしらです。夫が妻を支配する権威を持っているということではなく、夫は妻の幸福のために妻をリードする責任があるということです。そして、妻への教えは夫に従うことです。夫のかしら性を認め、夫を大切にして敬うのです。夫への教えは妻を愛することです。夫は夫婦の関係を創り出す責任を自覚し、そのままの妻を大切にし、妻の幸福のために自分自身を妻にささげていきます。そうした夫婦の歩みを「キリストを恐れて(エペソ5:21)」なしていきます。ただ自分たちの力や知恵によらず、十字架上で私たちの罪をすべて始末し、二つのものを一つにしてくださったイエス・キリストに信頼し力をいただきつつなしていくのです。
離婚は神の御旨ではありません。主イエスが教えられたことでした。しかし主イエスは淫らな行いの場合は、離婚の理由となると仰せられました。姦淫は結婚の代わりに新しい性的交わりを創り出すので、自動的に結婚を無効にするためです。日々弱さと戦いを覚えますが、主イエスに信頼し力をいただいて性における聖い歩みへと導かれていきたく願います。また、もう一つ。主イエスは姦淫の場合には必ず離婚せよと命じておられるのではなく、それを許可しておられるに過ぎません。姦淫の罪を犯された伴侶は赦し難く深く傷つき苦しみます。しかし主イエスは離婚を命じておられないのです。相手の罪を赦し離婚せず共に生きていくことが神の御心です。主イエスは深く傷つき赦せない心にも光を与えてくださるお方です。癒し主です。癒し主なるイエス・キリストとの交わりの中で私たちの歩みが導かれていくことができるのです。
生涯伴侶とともに生きることが神の御心です。しかしこの罪の世においてどうすることもできずに離婚に至ることがあります。その現実があります。そういう私たちに対する主イエスの眼差しはどのようなものでしょうか。主イエスはヨハネ4章でサマリアの女性と会われ、声をかけ、永遠のいのちの水のことを話されました。彼女は5度結婚し離婚し、男性と同棲していました。彼女はそれを隠していましたが、主イエスはその罪をご自身の前に明らかにされました。そしてそのように至ったのは彼女が全き愛を人に求め続けてきたことに気づかせ、神に立ち返り、人を真に満たす神との交わりである永遠のいのちへと導かれました。主イエスは離婚の罪をご自身のもとへ持ってくるようにと仰せられます。そして神に立ち返らせ、そこから主のいのちに歩むこと、神とともに歩むことへと新たに導いてくださるのです。
主イエスにより頼み、互いに相手の下に身を置き、妻は夫のかしら性を認め夫を敬う、夫はそのまま妻を大切にし妻の幸福のために自分を妻にささげていく歩みをなしていきましょう。主イエスの助けをいただいて、たゆまない戦いの中で性の聖さを求めていきましょう。すでに伴侶を天に送られた方々がおられます。神が伴侶と結び合わせてくださった恵みを覚え感謝を捧げたいと願います。結婚を待ち望んでいる方は結婚は一つとなることで神が結び合わせたものであることを覚え、良き伴侶が与えられていくように自らの結婚のために神に祈り求めていきたいと願います。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/4/19
『姦淫してはならない』(マタイ5:27~30)
聖書箇所 マタイ5:27~30
5:27 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。
5:29 もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。
5:30 もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。
説教要旨
主イエスは山上の説教で「性」のことを取り上げられました。「姦淫してはならない」十戒の第七戒でした。「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです(v28)」隣人の妻を欲する思い自体が罪であると仰せられました。肉体的姦淫の罪に向かう心を育てることを咎められました。主イエスはこの教えに生きていく態度を教えられました。(v29、v30)性的罪に誘うものを徹底的にその都度切り捨てよと。意志の決断を教えています。ヨセフは家の主人ポティファルの妻から毎日言い寄られましたが、その誘惑に打ち勝ったのは彼が彼女と一緒にいないようにしたことでした。(創世記39:10)
主イエスのこの教えの根底にあったのは、続く5:31~32で「離婚」を取り上げておられますが、「結婚の祝福」でした。聖書は結婚を大変重んじています。結婚は神が定められた制度です。結婚とは二人が一つとなることです。(創世記2:24)その間に何ものも入れてはなりません。体が一つとなる性的交わりは、夫婦においてのみであることが造り主なる神のご計画でした。神は性を良きものとしてお造りになられ、性的欲求自体は決して悪いものではありません。与えられている性を感謝し、夫婦の間で喜び、伴侶に対し生涯節操を堅く守り、一つとなる結婚を重んじていきます。ですから主イエスは一つとなる交わりを蝕む心の中での他の妻を求めることを禁じられたのです。ですから主イエスは一つとなる交わりを蝕むものを断固として切り捨てよと仰せられたのです。そこにこそ結婚における神の祝福があるからです。この「姦淫してはならない」との教えにおいて明確に咎められているのは、既婚者の伴侶以外の者との性的関係です。但し「結婚を尊ぶ」ということから、そして聖書全体から告げられていることは、結婚前の性的関係も咎められています。それらもまた将来の夫婦の一つの交わりという結婚を心と体の深いところで蝕むからです。既婚者は伴侶に対して心と体において節操を堅く守っていきます。結婚を待ち望んでいる者は将来の一つとなる結婚の祝福のために今自分の体を聖く保っていくのです。
主イエスはこの教えを律法の解説者として大上段に構え教えておられません。私たちの戦いをご存じで律法の成就者として語られ、私たちを助けてくださいます。主イエスが私たちのために十字架で負ってくださった罪には性的罪が入っています。主の助けをいただいて、性において罪と戦い、勝利を得ていきたく願います。そのことを十分に覚えたうえで、私たちの過去の過ちや今の弱さに対する主イエスの姿と言葉を見ていきましょう。宗教指導者により主イエスのもとに連れて来られた姦淫の現場で捕らえられた女性がいました。彼女に主イエスは「女の人よ(ヨハネ8:10)」と呼び、「わたしもあなたにさばきを下さない(ヨハネ8:11)」と仰せられました。姦淫の罪を罪ではないと仰せられたのではありません。姦淫の罪は罪です。でも罪に定めないと。主イエスはやがてのご自身の十字架の贖罪を見据えながら仰せられたのです。イエス・キリストの十字架によって赦されない罪はありません。そして仰せられます。「行きなさい。これからは、決して罪を犯してなりません(ヨハネ8:11)」主イエスは「わたしは、あなたとともに行きあなたとともに戦う。向きを変え新しく生きよ」と語っておられるのです。
性における神の言葉を軽んじることなく、曲げることなく、主イエスに信頼し、誘惑となるものをその都度拒み、結婚を尊んでいく戦いを続けていきましょう。具体的に罪と戦いがあるならば、主の前に持っていき、赦しと聖めを諦めることなく求めていきましょう。主の導きを求め信頼のおける同性のクリスチャン、若い人ならば自分よりも年齢が上の信頼のおける同性のクリスチャンに悩みを打ち明け祈ってもらいましょう。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/4/12
『助け主と共に』(Iヨハネ3:1~3) 斎藤成美師
聖書箇所 Iヨハネ3:1~3
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3:3 キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。
説教要旨
I 主の復活が与えた恵み
神と御子の罪人への愛は、誰にも真似の出来ないすごいものです。1節『私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えて見なさい』罪が完全に取り除かれ、素晴らしい人となりました。言わば【新しい人】となりました。パウロが小躍りし悦び言いました。『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しなりました。(Ⅱコリント5:17)』イザヤ44:22『わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。』罪のないきよい、神の御心といつも一致し、神が喜ぶ事を私達も自然に選び、素晴らしい人です。
Ⅱ 聖霊時代はなぜあるのか
では、なぜ、そんな素晴らしい人を、私達は今すぐ新しい人を着ることが出来ないのでしょうか。はやく新しい人を着たいですよね。そうすれば、病気で苦しまなくて良い。人の虐めで悩まなくても良いのですから。意味があります。私達は「私たちの復活」まで待たなければなりません。復活の日が来た時、全く新くなります。Ⅱテサロニケ4:16
聖霊時代と言われる今の時代は、何をすることなのでしょうか?それは、いつも伴ってくださる聖霊によって、新たしい人を体験して、神の新しい人を、どんなに素晴らしいものが用意されているかを体験し、神を褒め称えること。そして、今か今かと復活の日を待ち望むことなのです。聖霊によって新しい人を部分的に体験する時なのです。聖霊によって新しい人を体験することは、この罪の闘い中で体験すると、それはそれは宝石のような、いやそれ以上の体験となります。助け主聖霊による働きは種々ありますが、二つ挙げてみます。
(1) ある施設で、自動車事故が起こりまた。それを聞いて、私は「その運転手が祈って出発すればよかったのに」と思いました。聖霊は教えてくれるお方です。神はほんのちょっとの「ズレ」をもって、何事もなく、救うことの出来るお方なのです。
(2) 私の松戸時代の牧会のある日、バタバタと階段を小走りに降りている時です。2階には母親が住んでいて、その時も母の救いを祈りながらでした。母親は中国大陸を一人で行って帰ったり、苦労に苦労を重ねて私を育てました。ですから、がんこな人間になりました。超がんこな人物でした。教会の婦人会の人達は「お母さんは信じていますよ。」というのですが、息子の前には決心をしようとしません。その日階段を駆け降りている最中です。その時です。今まで経験したことのない、この世にはないような喜びが湧いてきました。母も救いに入れて頂いたのだと確信することが出来たのです。
守谷聖書教会イースター礼拝説教要旨 2026/4/5
『復活の喜び』(マタイ28:1~10)
聖書箇所 マタイ28:1~10
28:1 さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。
28:2 すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
28:3 その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。
28:4 その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。
28:5 御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。
28:6 ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。
28:7 そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」
28:8 彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
28:9 すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」
説教要旨
キリスト教信仰、教会はイエス・キリストの復活にかかっています。この福音書が記された紀元60年代後半、人々はイエスの弟子たちが夜墓に来て、番兵たちが眠っている間にイエスの亡骸を盗み、イエスが復活したと告げているとしていました。(v11~v15)マタイはそのような中でイエスの復活の記事を記しました。墓は空でした。これは敵対する者たちも否定できない事実でした。またユダヤ当局を怖れ隠れていた弟子たちは大胆にイエス・キリストを救い主と宣べ伝え、やがて殉教していきました。復活は真に不思議な出来事です。しかし空の墓と弟子たちの劇的な変化を説明する唯一の方法はイエスはよみがえられたという弟子たちの証言をそのまま受け入れることではないでしょうか。御使いは「さあ、納められていた場所を見なさい(v6)」と告げました。主イエスの復活を徹底的に調べ、ぶつかり、その上で判断したいのです。
イエス・キリストは、まことによみがえられました。主イエスが復活されたことは、ものすごいことです。イエスの敗北と見られていた十字架の死に逆転が起きました。主イエスの復活はイエスの十字架の死が神の子の死であり、神が人間を罪から救う神のご計画と御業であったことの確証でした。神の救いの御業が確かに成し遂げられたのです。
ここで神の御使いも主イエスご自身も弟子たちにガリラヤに行くよう命じそこで会えると告げました。主イエスはガリラヤにこだわられました。それは主イエスを裏切った弟子たちを「わたしの兄弟(v10)」と呼び、赦し、立ち上がらせ、再出発を与え、福音宣教の働きを託すためでした。「「…異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る(4:15~16)」とありました。「住んでいた」は「座っていた」とも訳されます。ガリラヤ地方は、紀元前8世紀にアッシリア帝国に滅ぼされ、混血政策が取られました。純粋なユダヤ人やユダヤ地方の人々からは、田舎者で、何のよいものも出ないと蔑まれていました。一方、ガリラヤ人はひがんでいました。そのガリラヤにおいて主イエスの救いの働きは始まり、そしてそのガリラヤにおいて主イエスの救いの働きが全うされようとしていたのです。
主イエスを裏切った弟子たちは自らを恥じ、失意の中に座っていました。復活された主イエスは、その弟子たちと会われ、近づき、福音宣教の働きを委ね、すべての日にともにいると約束され、起き上がらせていかれたのです。この福音書を記したマタイも収税所で座っていた者でした。(9:9)富を拠り所とし、深い孤独の中で、主イエスからわたしについてきなさいと語られ、立ち上がらせていただいた者でした。でも主イエスを裏切り、再び座ってしまった者でした。でも主イエスの光は変わらずにマタイに注がれ、マタイを再び立ち上がらせていったのです。マタイは自分たちが墓からイエスの亡骸を盗んだなどありえない、そんな勇気も力もなかった、こうして自分が立ち上がらせられたのは復活された主イエスによるとどうしても伝えたかったのです。私たちは人の蔑みの言葉や態度で苦しむ者です。一方で私たちは人の能力や地位、家族の状況、信仰の姿を妬み、そう妬む自分を見て恥じる者です。また私たちは苦難の中で神への信頼を失い、うち伏せ、恐れに満ち、孤独を覚え、不平不満に満ちてしまう者です。そういう心の一隅があります。でも、復活された主イエスは、そこでこそ出会ってくださり、闇を照らし、新しいいのちをもたらし、すべての日に私たちともにあり、何度も手を取って引き起こし、立ち上がらせてくださるお方です。
イースター、私たちのガリラヤの地で、復活されたイエスさまは私たちと出会って、新たに立ち上がらせてくださいます。復活の主と出会い、礼拝し、新しい出発を、再出発をいただいていきたいと願います。
守谷聖書教会棕櫚の主日礼拝説教要旨 2026/3/29
『十字架の御業』 (マタイ27:45~52)
聖書箇所 マタイ27:45~52
27:45 さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
27:47 そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。「この人はエリヤを呼んでいる。」
27:48 そのうちの一人がすぐに駆け寄り、海綿を取ってそれに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの者たちは「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」と言った。
27:50 しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。
27:51 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、
27:52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。
27:53 彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。
27:54 百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」
説教要旨
棕櫚の主日を迎えました。イエスが十字架に架かられていた時、正午から午後3時まで闇が地を覆いました。闇は人間の罪に対する神の裁きを表していました。イエスはずっと口を閉じておられましたが、死の直前、大声で叫ばれました。「「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である(v46)」神に見捨てられた叫びでした。十字架の下にいた者たちはエリヤを呼んでいるとからかい、酸いぶどう酒を飲ませ渇きを増させようとしました。まさに遊んだのです。楽しんだのです。神はイエスを見捨てられ、イエスは息を引き取られました。ユダヤ指導者はほくそ笑んだことでしょう。しかしイエスは息を引き取られたとき、大声で叫び、「霊を渡された(v50)」のです。叫んだ言葉は「完了した」か「わが霊を御手に委ねます」でした。イエスの十字架は何だったのでしょうか。イエスの十字架はイエスが神に捨てられたことでした。しかしそれはイエスの罪のためではありませんでした。神は人間の罪の身代わりにイエスを裁かれ全くお捨てになられ、イエスは人間の恐ろしい罪を残りなく負われ残りなく神の裁きを受けられ、神の救いの御業が成し遂げられたのです。それが十字架の死でした。
完了した救いの御業の内容が続く起こった出来事に示されています。第一は「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた(v51)」幕は神殿の至聖所と聖所を隔てていました。至聖所は神の臨在の場でした。至聖所には大祭司だけが年に一度大贖罪の日に入ることができ民の贖いをなしました。誰も神に近づくことができなかったのです。しかしその幕が裂かれたのです。主イエスは人間の罪を赦し神との和解を与えられたのです。第二は「…墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った…(v51~v53)」主イエスは人間を支配していた罪と死の力を骨抜きにし、神とともに生きる新しいいのちをもたらしてくださったのです。神の救いのプレゼントが主イエスの十字架の死によって用意されたのです。
人は神がイエス・キリストによって成し遂げてくださった救いを信仰を通して受け取ることができるのです。神の前に全き罪の赦しをいただくことができるのです。たましいを支配していた罪と死から解放され神とともに生きる新しいいのちをいただくことができるのです。キリスト者は主イエスが十字架の死によって成し遂げられた罪の赦しと新しいいのちを信仰という手を差し出して受け取らせていただいたのです。私たちははっきりと答えることができます。「あなたの罪は赦されているのですか?」「はい、赦されています」「何故ですか?」「イエスさまが十字架で私のすべて罪の肩代わりをしてくださったからです」。「あなたは新しいいのち、永遠のいのちをいただいたのですか?」「はい、いただいております」「何故ですか?」「イエスさまが十字架で私の罪と死の力を骨抜きにしてくださったからです」。そして罪赦され神との和解が与えられたので、「大胆に」神に近づくことができるのです。(へブル10:19~22、へブル4:14~16)大胆にとは「確信をもって」と「包み隠さず」という意味があります。この私がいつでも、どこででも、率直に祈ることができるのです。「疲れました」「傷つきました」「罪の弱さが出ました」神はその祈りを決して地に落とさず、折にかなった最善の助けを備えてくださいます。また主イエスが罪と死の力を骨抜きにし新しいいのちをもたらしてくださったので、私たちは自分が主のものとされていることを認め続けていきます。どんな弱さが出たとしても、どのような苦しみの中でも主に愛されている者であるのです。そして新しくされた者として日々私自身を神の側に置き立たせていくのです。(ローマ6:11~13)
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/3/22
『十字架の愛』(マタイ27:32~44)
聖書箇所 マタイ27:32~44
27:32 兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。
27:33 ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、
27:34 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
27:35 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。
27:36 それから腰を下ろし、そこでイエスを見張っていた。
27:37 彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。
27:38 そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。
27:39 通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
27:40 「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
27:41 同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
27:42 「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
27:43 彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
27:44 イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
説教要旨
本日と次週の棕櫚の主日は、山上の説教の御言葉を離れ、主イエス・キリストの十字架の記事を見、主の十字架の愛と御業を覚え、喜びのイースターを迎えていきたいと願います。
マタイ福音書は十二弟子の一人マタイがユダヤ人に向けて記したものです。キリスト教はイエスが救い主であると信じますが、ユダヤ教はイエスが救い主であると認めておらず、救い主の到来をなお待ち望んでいます。ユダヤ教徒がイエスを救い主であると認められない大きな理由の一つはイエスが十字架刑に処せられたことです。律法には「木にかけられたものは神にのろわれたもの」とあるからです。主イエスはユダヤ議会の裁判とローマ総督ピラトの裁判により十字架刑に定められ、処せられていきました。十字架上で人々と宗教指導者から「十字架から降りよ」「自分を救え」「神に救い出してもらえ」と嘲り続けられましたが、主イエスは一切口を開かず、十字架から降りることなく、死んでいかれました。神もイエスを救いませんでした。ユダヤ指導者たちは思ったことでしょう。「それ見たことか」「偽救い主だ」「いんちき神の子だ」
しかし、これは人間の側から見たものでした。ここにこそ神の大きな救いのご計画がありました。主イエスの時代から700年前に書かれたイザヤ書53章には、救い主が苦しむことが預言されていました。神は人間の罪咎を救い主に負わせ、救い主を裁かれ、救い主は自分のいのちを償いのささげ物としてささげ、「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する(イザヤ53:11)」と預言されていました。神はイエスを救いませんでした。人々はイエスが神に罰せられたと思いました。しかし神はイエスに私たち人間の罪を負わせ、私たちの罪を処分するご計画をなされたのです。そしてイエスは神に従われ、ご自分を罪の償いのいけにえとしてささげられたのです。嘲りの言葉には、主イエスが十字架から降りなかった理由が示されています。「神のお気に入り(v43)」「神に拠り頼んでいる(v43)」神を愛するゆえでした。主イエスは父なる神に従われ苦しみを耐え忍ばれたのです。「他人を救った(v42)」私たち人間を愛するゆえでした。主イエスは私たちを愛し、十字架から降りなかったのです。ローマの兵士のごとくこの世の富や楽しみのみを追い求める私たち、宗教指導者のごとく妬みに満ちた私たち。しかし主イエスはそういう私たちを愛し、私たちのありとあらゆる罪を拭うために十字架で身代わりに死んでくださったのです。私たちはいのちがけで愛されたことがあるでしょうか。主イエスに尋ねたとするでしょう。「あなたは私を愛して、いのちをお捨てくださったのですか」主イエスははっきりとお答えになられます。「わたしはあなたを愛し、あなたを罪と永遠の死から救うためにいのちを捨てたのだ」そして主イエスは神のもとに立ち返った私を喜んでくださっておられるのです。
その主イエスは私たちに語られています。日々十字架を負って生きよと。(マタイ16:24~25、ルカ9:23~24)自分の十字架を負ってとは試練を負うということではなく、自分に死ぬということです。この世の富、地位を追い求める自分に死ぬのです。忍耐をやめ言い返そうとする自分に死ぬのです。十字架を負うことは人間的には嫌な思いをします。しかし無理やり十字架を背負わされたシモンが神の国の真の幸いの中に歩んでいったのです。神の目は御心に生きようとする者の上にあり、神の耳はその者の祈りを聞いておられ、真の意味で幸せな日々を与えてくださるのです。(Ⅰペテロ2:20~23、Ⅰペテロ3:8~12)あなたの献身、あなたの忍耐、あなたの謙り、あなたの小さな死を神は顧みてくださるのです。「いきどおりながらも うつくしいわたしであろうよ 哭きながら 哭きながら うつくしいわたしであろうよ(八木重吉)」
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/3/15
『殺してはならない』(マタイ5:21~26)
聖書箇所 マタイ5:21~26
5:21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
5:23 ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、
5:24 ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。
5:25 あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。
5:26 まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。
説教要旨
主イエスはご自身が律法を守り、私たちを律法に生きることができるように助けてくださるお方であることを告げられた後(v17)、律法の真の意味を教えていかれました。「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています(v21)」当時の律法学者たちは、十戒の第六戒「殺してはならない」を、人を殺めないことであると教え、それのみに神の裁きがあると教えていました。でも、主イエスは「兄弟に対して怒る者(v22)」だと言われました。「殺す」には心の思いも含まれていると仰せられたのです。「怒る者(v22)」とは怒り続けている者です。固定して怒っている者です。さばいている者、相手にレッテルを貼りその言動にたえず苛立ちを覚えている者です。そしてそれは多くの場合、相手への蔑みの言葉となります。「兄弟に『ばか者』と言う者…『愚か者』と言う者(v22後半)」「殺す」には言葉も含まれていると仰せられたのです。そして、その罪を神はお裁きになられるのです。
続いて主イエスは「殺してはならない」との戒めは、心の中で怒り続けず、蔑みの言葉を発しないとの消極的な態度を教えているだけではなく、積極的に相手と和解し良い交わりを育てていくことであると教えられました。誇張表現で和解の優先性(v23~v24)と緊急性(v25~v26)を教えられました。和解を遅らせると猜疑心や相手への裁きの思いが大きくなっていきます。但し、相手への怒り、批判、対立すべてが悪いものではありません。主イエスは十字架を前にして神を礼拝する神殿が商売の家となっていたことに憤られました。主イエスは宗教指導者たちに「愚か者」と仰せられました。(マタイ23:17)主イエスは当時の宗教指導者が自分を恨んでいることにおいて仲直りされませんでした。主イエスは捕らえられ訴えられた時、和解をなされませんでした。主イエスは正しく怒られ、落ち着いて批判され、真理のために戦われたのです。人には正しい怒り、正しい批判、真理のための対立があるのです。しかし、ここで仰せられていることはそのようなものではなく、相手への固定的な怒り、それによる人格を傷つける蔑みの言葉を戒めているのです。そして和解をなし積極的に良い交わりを生み出していくことを教えています。それこそが「殺してはならない」との律法の真の意味であることを仰せられたのです。
この主イエスの教えの前に相手の言動に直ぐにさばいた目で見てしまう自分を覚えます。心を治められず蔑みの言葉を発してしまう自分を覚えます。和解ができず、隔ての中で痛み憂いている自分を覚えます。しかし、主イエスはここで当時の宗教指導者のように教えを私たちの肩の上にただ乗せられたのではありません。主イエスは律法を成就してくださるお方です。そうです。私たちは独りではありません。主イエスがともにおられるのです。主イエスとともにこの生き方をなしていくのです。主イエスは「わたしといっしょにやっていこう」と仰せくださっているのです。主イエスは私を愛し、私のありとあらゆるこびりついている罪をすべて負い十字架にお架かりくださり、「最後の一コドランとを支払うまで、そこから出ることはできません(v26)」と、私の罪の身代わりに神の裁きを受け、私の罪を完全に処分してくださったのです。そして聖霊を与え、聖霊は私たちに気づきと愛する力を与えてくださるのです。私たちがなすことは何でしょうか。自分の力でなそうとするのではなく、まず主イエスのもとに行くことです。主イエスのところにすべての罪の重荷を正直に下ろすことです。主に祈ることです。そして主イエスの御力によって愛に生きていくことです。救いは私にあるのではなく、主にあるのです。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/3/8
『律法の成就者』(マタイ5:17~20)
聖書箇所 マタイ5:17~20
5:17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。
5:19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
5:20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。
説教要旨
主イエスは弟子たちが「地の塩(v13)」「世の光(v14)」であるとこの世における使命を語られ、「良い行い(v16)」をなすことを仰せられました。主イエスはv21~で律法の真の意味を語り、「良い行い(v16)」を具体的に教えました。それらの教えをなされる前の主イエスの言葉が今日の御言葉です。「わたしは律法を廃棄するためではなく成就するために来たのです(v17)」宗教指導者や民衆から主イエスの教えや行いに対し律法を軽んじているとの非難があったのでしょう。律法とは神がエジプトの奴隷から救い出されたイスラエルの民に与えられた神の望まれる生き方です。律法の代表は「十戒」であり、主イエスは律法の最も大切な教えは神を愛することと隣人を愛することであると仰せられました。人は神に愛され神を愛し神の教えに従うのです。しかし主イエスの時代、宗教指導者たちは律法の一つひとつを字義通り守ることに拘泥し、神への愛を失っていました。(マタイ15:8)「成就する(v17)」とは、直訳は「満たす」です。「律法を満たす」とは主イエスはご自身が律法を完全に守られ、また私たちが律法を守ることができるように助けてくださるということです。
主イエスは、まず律法の永続性を語られ(v18)、続いてクリスチャンは律法に従うことを教えられました。(v19)新約時代に生きるクリスチャンは律法とは関係がないのではありません。クリスチャンは神の愛に応じ神の律法に従っていきます。クリスチャンは自分が地図になって生きる者ではなく、神の地図に従って生きる者です。その歩みこそ神の祝福(内的自由)に生きていくことができるのです。
では主イエスも当時の宗教指導者たちと同じように律法を字義通り守るという神への従い方を教えているのでしょうか。主イエスは弟子たちの義(律法を守ること)が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ天国に入れないと仰せられました。(v20)これは宗教指導者たち以上に律法を字義通り守らなければ天国に入れないということではありません。主イエスのお言葉には二つの意味があります。一つは律法を守ることによって義を得て天国に入ろうとする律法学者の義にまさるとの意味です。もう一つは律法を字義通り一つひとつ守っているが神への愛は失われている律法学者の義にまさるとの意味です。人は誰も律法を完全に守ることはできません。義人はいません。一人もいません。しかし主イエスは律法を完全に守られ、律法を守ることができない私たちの罪の身代わりに十字架で神の裁きを受け死なれ、私たちの罪を処分し、私たちの罪を赦してくださるのです。そればかりか主イエスは復活され天に昇られ、助け主なる聖霊を送られ、神を愛し律法に生きるように助けてくださる、即ち力を与えてくださるのです。(ローマ8:3~4)主イエスは「律法の成就者」です。律法の解説者ではありません。(7:28~8:4)主イエスが語られたことは私たちの内で実現していきます。ですから福音です。主イエスは仰せられています。罪で疲れた人、宗教指導者の教えの重荷を負っている人(23:4)はわたしのもとに来なさいと。罪赦され神との平和が与えられます。(11:28)それだけではない。わたしのくびきを負ってわたしから学びなさいと。(11:29)くびきには二つ頭を入れるところがありました。わたしが一緒にやっていくのだから、わたしが助けるから神とわたしの教えに生きよと。そうすれば魂に安らぎを得ます。次週から主イエスが律法を教えられた御言葉に聴きます。そんなことはできないという律法廃棄論者ではありません。その一方で自分で頑張るのでもありません。主イエスが一緒にやってくださるのです。主イエスの贖罪に拠り頼み、聖霊の力をいただき、神の御心に生きる真の自由と喜びの中を歩んでいきましょう。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/3/1
『地の塩、世の光』 (マタイ5:13~16)
聖書箇所 マタイ5:13~16
5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
説教要旨
主イエスは山上の説教の冒頭で弟子たちに八つの幸いを語られ、イエス・キリストを信じた弟子たちの在り方・生き方・特質をお語りになられました。続いて主イエスは弟子たちにそのあなたがたこそ「地の塩(v13)」「世の光(v14)」であると仰せられました。「地」「世」とは、神に造られましたが、神から離れ神を退けている世界です。私たちの置かれた持ち場、家庭、職場です。「あなたがたは地の塩になれ、世の光になるだろう」ではありません。「あなたがたこそ地の塩、世の光である」と仰せられました。ここには大切なことが語られています。第一に教会やクリスチャンは世から迫害されるが(v10~v12)、その世から身を引いてしまうのではないということです。第二に教会やクリスチャンは世の中にいながら世とは異なる存在であるということです。第三に戦いの世において信仰を守り神の祝福を喜ぶ者であるだけではなく(v10~v12)、世に影響をもたらしていく者であるということです。塩は腐敗を防ぐ役割です。神の御心に反するという時、その悪に対しNoとする歩みです。光は照らす役割です。この世の罪の暗闇の中で望みを失っている者を励ましていく者です。そして何よりも罪の闇を照らす真の光であるイエス・キリストを証しする者、神の愛を証しする者です。
しかし、主イエスは塩は塩気を失うことがある、光は光を隠してしまうことがあると仰せられました。(v13、v14)本来の特質を失ってしまうのです。本来の特質とは何だったでしょうか。イエスさまが仰せられた「八つの幸い」です。(v3~v10)教会やクリスチャンが特質を失うとは自分の力のみで生きる、自らを顧みず罪を悲しまない、謙虚さと忍耐強さを失う、神の御心を求めるのではなく自分の思いのままに生きる、相手の罪を自分の前に置き続ける、神に一つ心向けず世のものを第一に追いかける、自分中心となって諍いをもたらしイエス・キリストの救いを宣べ伝えない、神に従う苦しみを負わない歩みをなしてしまうことです。
主イエスは仰せられます。「あなたがたの光を人々の前で輝かせない」と。「人々の前で輝かせる(v16)」とは「良い行いをする(v16)」ことです。「良い(v16)」とは「カロス」という言葉で「美しい」との言葉です。それは「八つの幸い」の歩みです。神に助けを求め、自らの罪を悲しみ、謙虚に忍耐強く、神の御心に生きることを切に求め、あわれみ深く、神に一心に心を向け、平和をつくり救い主イエス・キリストを宣べ伝え、神の御心のために迫害される歩みです。そしてそれは次のv17~の教えと関係していますが、当時の宗教指導者のごとく神への愛を失い一つひとつ律法の規則を文字通り守っていく外面的なことを言っているのではなく、神に愛され神を愛する天の父なる神との交わりの中でもたらされる美しい歩みです。こうして世の腐敗を防ぎ、世の暗闇に灯を照らしていくのです。そして美しい行いの土台は、八つの幸いの冒頭の「心の貧しい者(v3)」、神に助けを求めることです。そういう者は天の御国の祝福、神ご自身の祝福に与りながら生きていくのです。神に慰められ、世に神の働きをなし、神に満たされ、神と出会い、神から神の子どもと呼ばれるのです。神が下さる祝福の中に生かされていくのです。神に引き上げられていくのです。ですから「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになる(v16)」と、人々は私たちを引き上げてくださっている天の父なる神さまを崇めるように導かれていくのです。
神に助けを求めましょう。イエス・キリストの十字架の救いに立ち続けましょう。聖霊の御力に拠り頼みましょう。そして地の塩、世の光として美しい歩みをなしましょう。そして人々が私たちを引き上げてくださっている天の父なる神を仰ぎ見ることができるように導かれていきましょう。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/2/22
『義のために迫害されている者』(マタイ5:10~12)
聖書箇所 マタイ5:10~12
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。
説教要旨
八つの幸いの八番目は「義のために迫害されている者(v10)」です。神の御心に従うために迫害されている者です。神だけを神と礼拝するために迫害されている者です。また主イエスに従うために迫害されている者です。(v11)一つ前の主イエスの言葉は「平和をつくる者は幸い(v9)」です。クリスチャンは人との間に平和をつくっていきます。しかし主に従うゆえに、救い主イエス・キリストを宣べ伝えていくゆえに迫害されることがあるのです。旧約時代から神に従う者への迫害がありました。エリヤはアハブ王に脅迫されました。エレミヤは神の裁きを告げたために投獄されました。新約時代も主イエスに従う者への迫害がありました。弟子たちはユダヤ人から、続いてローマ帝国から迫害され殉教しました。日本でも江戸幕府は徹底的にキリスト教徒を弾圧しました。明治の初期には諸外国の反対によりキリスト教禁令は取り下げられましたが、明治の半ばには内村鑑三の不敬事件など風当たりが強くなりました。戦時下では国家神道体制の中で非常な苦境に立たされました。聖書は為政者のために祈ることを教えています。(Ⅰテモテ2:1~2)主への礼拝と福音宣教が自由になされていくためです。そういう祈りをしっかりとなしていきます。でも「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます(Ⅱテモテ3:12)」世はサタンが力をふるい神と救い主を退ける中で、私たちは世の中に生きながら世のものではなく主のものだからです。(ヨハネ15:19)
主イエスは義のために迫害されている者は「幸い(v10)」と仰せられました。「天の御国はその人のものだから(v10)」です。現在形です。義のために迫害を受けている者はすでに神の国、神の救いの支配に与っているのです。義のための迫害は天の御国に与っているしるしです。3節にも「天の御国はその人のものだから」とあり、くくられるような形となっています。即ち、今までのv4~v9の祝福に与っていくのです。神ご自身の慰めに与っていく。神の働きを地になしていく。神が魂を満たしてくださる。神の憐れみに与っていく。神と出会っていく。神から神の子どもと呼ばれる。そうです。地と天において神ご自身の祝福に与っていくのです。そしてこの道は主が先に歩まれ、ともにおられます。私たちの幸い観がこの世のもの(富、名誉、成功、平穏無事)が第一であるならば幸いな歩みではありません。でも私たちの幸い観が主とともに在ることが第一であるならば真に幸いな歩みです。
それにしても驚きます。主イエスは「喜びなさい。大いに喜びなさい(v11)」と迫害を受ける者が喜ぶべきと仰せられました。「恐れるな」ではありませんでした。「耐え忍びなさい」でもありませんでした。地と天における神の国の祝福は言い表せない素晴らしいものであって、それを喜ぶのが私たちです。私たち守谷聖書教会は悲壮感に満ちて主に従うのではありません。主に従う喜びが現れ出ている教会でありたいのです。そしてそれが私たちの慕う主イエスのお姿でした。「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです(へブル12:2)」
私たちは平和をつくる者です。為政者を覚え祈っていきます。でも主に従う歩みに迫害や反対は付随します。クラスや職場で自分独りがクリスチャンであること自体が戦いでしょう。家族からの言葉や態度で痛みや孤独を覚えている方があるでしょう。主の教会を建て上げていく葛藤を覚えている方があるでしょう。でも主イエスは仰せられます。それが私たちなのだと。その狭い道が私たちの歩みなのだと。そこにわたしがともにいるのだと。主の御言葉に聴き、地と天における神の祝福への喜びをもって主にお従い通していきたいと願います。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/2/15
『平和をつくる者』(マタイ5:9)
聖書箇所 マタイ5:9
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
説教要旨
「平和(v9)」(ギ:エイレネー、へ:シャローム)は、ただ争いがない状態を表しているのではなく、神との関係の平和、人との関係の平和、自分の心の平安、すなわち神の祝福に満ちた状態を表しています。「調和」とも言うことができます。神は「平和の神」であられます。三位一体なる神は、愛の交わりにおいて平和で満ちておられます。そして神は「平和をつくられる神」であられます。神は世界と人をお造りになられたとき、世界と人はシャローム、平和の状態でした。しかし、人が神の命令を破り、罪を犯して以来、神との関係、隣人との関係、自然との関係、そして自分との関係が崩れました。しかし、神は、その人間を捨てず、御子イエス・キリストの十字架によりご自身から平和をおつくりくださいました。イエス・キリストは「平和の主」でした。父なる神との平和の中におられました。そしてイエス・キリストは「平和をつくられる主」でした。身を低くしてこの地に来られ、私たちの罪の身代わりに自ら十字架の死にまで従われ、私たちに罪の赦しを与え、神との平和をもたらしてくださったのです。
「平和をつくる者は幸いです(v9)」「平和をつくる者(v9)」とは、第一に「私と隣人」との間に平和をつくる者です。人が集まって起こることは、残念ながら、比較、妬み、不満、争い、分裂です。平和は「ある」ものではなく、「つくる」ものです。そして聖書は私たちが基本的にすべての人と平和を保って歩んでいくことを教えています。但し、聖書が教える平和は、正義や真実を曲げて事を荒立てない、波風を立てないことではありません。譲ってはならないことがあります。神の言葉を曲げて平和をつくるのではないのです。しかし、基本的な私たちの態度は平和をつくっていくものです。第二に「平和をつくる者(v9)」とは「神と人」との間に平和をもたらす者です。神との平和をもたらす救い主イエス・キリストを証しし宣べ伝えていきます。(Ⅱコリント5:18~21)
そのような「平和をつくる者(v9)」たちこそ「神の子どもと呼ばれる(v9)」と主イエスは仰せられました。神が「わたしの子ども」と呼んでくださるのです。すなわち、神は平和の神であられ、平和をつくられるお方であられますが、その神のご性質と神の使命を受け継いでいる神の子どもであるのです。イエス・キリストを信じたその時から私たちは神の子どもとされましたが、神の子どもとされた者として平和をつくる歩みをなし、実質的に神の子どもとされていくのです。そして、その「平和をつくる」一番の土台となるのは「自分が平和で在ること」です。そのことが「神の子どもと呼ばれるからです(v9)」との主の言葉には暗示されているでしょう。神は平和をおつくりになられましたが、神は三位一体なる神で御父と御子と聖霊の愛の交わりに満ちていた「平和の神」であられました。主イエスは十字架で死なれ神と私たちの間に平和をおつくりになられましたが、父なる神と愛の交わりに満ちておられた「平和の主」でした。「自分が平和で在ること」が「平和をつくる者」であるのです。それはこの山上の説教でも平和をつくる者の教えの直前が心が神に一つに向けられている「心のきよい者(v8)」であることにも示されているでしょう。また御霊の実の順序も覚えたいのです。御霊の実は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22~23)」です。その順序は相手への「寛容、親切、善意」や自らが「誠実、柔和、自制」であることの前に「喜び、平安」があるのです。
一日の初めに主の前に自分を置き、人中で心揺れるたびに心を一つ主に向けていき自らが平和で在ることを切に求めましょう。そしてそこから平和をつくる者とされ、神からご自身の子どもと呼ばれる幸いの中を歩んでいきましょう。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/2/8
聖書箇所 マタイ5:8
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
「心(v8)」は「カルディア」という言葉が使われています。考え、言葉、行動の“源”とのニュアンスがあります。また「きよい」は「混ざりもののない」「一心に」「単純に」との意味です。「心のきよい者(v8)」と聞くと道徳的にきよい者を思います。そういう意味が全くないわけではないのですが、それが中心的な意味ではありません。「心が神に一心に向いている者」です。自分の心の中を見て罪があるかないかということよりも、自分の心がどこに向いているかが問われています。世の中の色々なものを追いかけているのか、それとも神を求めているのかが問われています。この世のものが必要ないというのではありません。富は必要なものです。でも愛するものではありません。名誉や評価は悪いものではありません。でも求めるものではなく結果として伴ってくるものです。
心を神に一心に向けていくのは、神が私たちに一心であられるからです。旧約時代、神はイスラエルの民に十戒を与えられた時、まず戒めを与えられたのではありませんでした。「わたしは、あなたがたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である(出エジプト記20:2)」「わたしは、ねたみの神(出エジプト記20:5)」とご自身の愛を告げられました。新約時代、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪の宥めのために御子イエス・キリストを与えてくださいました。そして神は今ご自分のものとされた私たちを心配し、益を願い、益をなしてくださっておられます。だからその神に私たちの心を一心に向けていくのです。どんな働きをなしていても、人中にいても、どのような状況の中でも私たちの心を神に向けていくのです。
「その人たちは神を見るからです(v8)」心を神に向けていくときに神との交わりは深められていきます。神との交わりは人格的関係ですから、固定されているものではなく深められていくものです。一方、イエス・キリストを信じ罪赦され神との関係に入れられても、心を神に向けることなく、神以外のものに心を向け、それを第一とした歩みを続けていくならばどうでしょうか。神との関係は変わらないのでしょうか。神が義と認めてくださった救いの約束は変わりません。でも、神との交わりは薄れ、自分中心になり、罪に鈍感になり、「心(v8)」は考えや言動の源ですが、考えることや言葉や行いが神の御心から逸れていきます。いただいた救いを無駄にする歩みをなしてしまいます。知らぬの内にです。サタンは、あらゆる方法をもって私たちを神から離れさせようと働きかけています。イスカリオテのユダは弟子たちの会計役でしたが、たまたま誘惑に流され主イエスを売ったのではなく、普段からお金を盗んでおり、それが主イエスを銀貨30枚で売る恐ろしい罪をなすことになっていきました。主イエスに名を呼ばれ、主イエスに愛され、主イエスとともに歩んでいましたが、心が主から離れていたのです。罪は発展していきます。罪はそのままではありません。熟していきます。浸食していきます。でも、罪の力が失われる方法があります。サタンが退いていく方法があります。神に近づくことです。神が近づいてくださるのです。「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。…二心の者たち、心を清めなさい。(ヤコブ4:7~8)」それのみです。ともにおられる神に心を向けていくときに神は近づいてくださいます。神との交わりが深められていきます。そして、神との交わりは喜びをもたらしていきます。務めをなしていく力をもたらしていきます。そして、やがて天の御国において神にまみえる真の喜びと祝福に与ることができるのです。「私の心を一つにしてください。御名を恐れるように(詩篇86:11)」
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/2/1
聖書箇所 マタイ5:7
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
説教要旨
「あわれみ(v7)」(ギ:エレオス、ヘ:ヘセド)は、心情よりも、「忍耐強い」「赦し」「苦しみから救い出す」が内包されている意志や行動に重きが置かれています。神はあわれみ深いお方であられます。旧約時代、神は契約を結んだイスラエルの民の不真実に対し忍耐強く、彼らの背きを赦し(意志的にご自身の前に持って来ず)、彼らを敵から救い出されました。神は義なるお方で(v6)、罪を正しく判断され、罰せられるお方です。と同時に神はあわれみ深いお方です。神のあわれみの究極は、御子イエス・キリストの死です。神はご自身に背く私たちの身代わりにお独り子イエス・キリストを十字架で裁かれ、私たちを捨てず、罪を赦し、罪の中から救い出してくださいました。
「あわれみ深い者は幸いです(v7)」自分に悪をなす相手に忍耐強く、罪をその都度赦し、善をなす者です。相手の悪に傷つき感情が伴っていかず癒えない部分があるけれども、相手に対して忍耐強く、相手が自分になした蔑みや言葉の罪をその都度意志的に自分の前に持って来ず、相手に益をなしていく者です。
主イエスは、そういうあわれみ深い者は「幸い(v7)」と仰せられ、その理由は「その人たちはあわれみを受けるからです(v7)」と仰せられました。神ご自身があわれでくださるのです。この言葉には、あわれみ深い者となる秘訣が暗示されています。すなわち、自分が神のあわれみを受ける者であることを覚えていることです。マタイ18章には主イエスがなされた大変有名な例え話があります。王は一万タラント負債のある者を一方的に免除してあげました。でも負債を免除されたその家来は自分に百デナリ借りのある仲間に出会うと、借金を返せと迫り、負債を返すまで牢に放り込みました。王は告げます。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきなはなかったのか(18:33)」この家来は自分の免除された負債の大きさを全く理解しておらず、王のあわれみを心底自分のものとしていませんでした。逆を言うならば、神のあわれみを知ると(神のあわれみが自分のものとされていくと)、私たちはあわれみ深い者となる希望が教えられています。そういう意味で、クリスチャンの歩みはクリスチャンになる前と大きく異なっています。あわれみ深い神を知らされていることです。帰るべきところを持たせていただいていることです。また、あわれみ深くない自分の罪の深さに気づかせていただくことができることです。そして、あわれみ深い神に立ち返り、祈ることができることです。その祈りは「私をあわれんでください」です。神はその祈りを決して地に落とされません。神はあわれみ深いお方で、私たちを途中で捨てることなく、あわれみ深くない私の罪を赦し、罪の中から救い出し聖霊によって造り変え続けてくださるのです。その連続です。ですから「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受ける(v7)」のです。そして、やがて天において神は私たちをあわれみ、捨てることなく、罪をご自身の前に持って来ず、素晴らしい救いの祝福の中に導き入れてくださるのです。
あわれみ深い者として歩むことは本当に難しく、戦いを覚え、失敗をなす者です。でも、あわれみ深い神はご自身に信頼する私たちを忍耐強く導き、失敗をその都度赦し、再出発を与え続けてくださいます。ですからあわれみ深い神によりすがり、感情が癒えないものが残っている場合もありますが、聖霊の助けによって忍耐強く、意志的に自分の前に相手の悪を持って来ず、善をなしていく者へと造り変えられていきましょう。あわれみ深い者となることをあきらめず祈り求めていきましょう。そして地において、天において神のあわれみを受ける幸いな者へ導かれていきましょう。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/1/25
聖書箇所 マタイ5:6
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
説教要旨
「義(v6)」とは中心的な意味は「正しいこと」です。まず神が義なるお方であられることを覚えます。神は正しいお方です。神に従わない罪を正しく判断され、罰せられるお方です。神はただ受容の神ではありません。アダムが神の命令を破った時、神はその罪を正しく判断され、罰せられ、人は神との交わりを失いました。聖書は「義人はいない。一人もいない(ローマ3:10)」と告げます。神の前に誰一人正しい者、自分は大丈夫だと言える者はいないのです。しかし、神は私たちを愛し、御子イエス・キリストを宥めの供え物として私たちの罪の身代わりに裁かれ、神の正しさが曲げられることなく、罪の赦しの御業を成し遂げてくださいました。私たちは御子イエス・キリストの御業を受け入れ、義なる神の前に義と認められ、神と正しい関係にある者とされたのです。
そのクリスチャンは「義に飢え渇く者(v6)」です。「義(v6)」とは正しいこと。神の御心にかなうように従うことです。「飢え渇く(v6)」とは「飢える」と「渇く」との二つの言葉でいずれも現在形です。「義に飢え渇く者」とは神の御心に従うことを切実に求め続ける者です。「義認」は驚くべき恵みですが、救いの出発であり、そこで留まるのではなく、神の御心にそって生きようと「聖化」を切に求め続ける者です。もう少し「義に飢え渇く者」を掘り下げますと、第一に「義に飢え渇く者」とは、罪赦され、神の前に義と認められ、神と正しい関係にあるのはイエス・キリストの十字架のゆえであると、絶えずイエス・キリストの十字架の救いに立ち続ける者です。主イエスはこの後熱心に自分たちで神の律法を守ろうとしていた宗教指導者の義にまさっていなければと仰せられています。(v20)それはただただイエス・キリストの十字架の赦しによる義以外何ものでもありません。第二に「義に飢え渇く者」とは神の御心に生きようと切に求め続ける者です。神の御心とは神を礼拝し、神を拠り所、避け所として生きることです。神を日々畏れ敬うことです。人に仕え人を建て上げる言葉を語ることです。しかしサタンは人類の最初から神の教えに生きていくことから逸らせようと働きかけます。(創世記3:1)神がどれほど私たちに恵み豊かなお方であり私たちの祝福を願っておられるお方であるのかを疑わせ、自分の思いのままに生きよと誘ってきます。しかし、そういう中で罪と戦い、神の御心に生きるように切実に求め続けて生きていきます。それはここが大切なことですがただ自分の力によって神の御心に生きるのではなく、聖霊の助けを切に求めて生きていくことであるのです。また全く失敗のない歩みではなく、神の前に相応しくない歩みをなしてしまった場合にはそのまま神に告白し、その都度赦しと聖めをいただき、再出発をしていく歩みです。(Ⅰヨハネ1:9)
「その人たちは満ち足りるからです(v6)」受動態未来形です。義認の根拠であるイエス・キリストの十字架に立ち続ける者に、神は神の前に罪赦され、神のものとされているのだとの喜びを与えてくださいます。神の御心に生きようと飢え渇く者に、神は聖霊の助けを与え神の御心に生きる力を与えてくださいます。そして、神は神の御心に従う者の魂に満足を与えてくださいます。私たちは思うかもしれません。「神の御心に従うことを求め続けて生きるなんて窮屈だ。そんな緊張感があるような歩みをしたくない」でも少し考えたいのです。これまでの信仰の歩みを思い起こしたいのです。自分の思いのままに歩む。本当に満足でしょうか?一時は楽しく良い気分になるかもしれません。でも虚しく渇いてくるのではないでしょうか。主イエスは仰せられています。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者はそれを見出すのです」そしてやがて天において神は全き喜び、全き愛の満たしを与えてくださるのです。(ヨハネ黙示録7:14~17)
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/1/18
聖書箇所 マタイ5:5
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
説教要旨
「柔和な者(v5)」と聞くと、どのような人を想像するでしょうか。「物腰が柔らかい」「穏やか」その一方で「どこか弱々しい」「心優しいが頼りにならない」。「柔和な者(v5)」とは「へりくだった者」とも訳されます。聖書は「柔和」と「謙遜」を近いものとして教えています。(エペソ4:2、コロサイ3:12)モーセは「だれにもまさって非常に謙遜であった(民数記12:3)」姉ミリアムと兄アロンはモーセが指導者であることを妬み、モーセが異国の女性と結婚していることを非難しました。モーセへの妬みが歪んだ形で出ました。その時、モーセは腹を立てず、言葉を慎み、神に委ねました。神はモーセが指導者であることを示されました。姉ミリアムは神の裁きとして皮膚病に冒されました。しかしモーセはミリアムの癒しを祈りました。「柔和な者(v5)」とは悪に腹を立てず、忍耐強く、悪をなす者に善をなしていく者です。主イエスご自身がまさに「柔和な者(v5)」でした。(マタイ11:29)主イエスは悪に悪で返さず、忍耐強く、益を与えてくださるお方です。その際たる姿が主イエスの十字架の死でした。嘲られても嘲り返さず、罵られてもおどすことをせず、十字架で私たちの罪を負い、身代わりに神の裁きを受け死なれ、罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださいました。但し「柔和な者(v5)」とは、ただ「心優しい者」ではありません。悪に対し何もしない、人に一切叱責をしないということではありません。モーセはアロンが民に促され金の子牛を作ったときに強く咎めています。主イエスは宗教指導者たちを咎めています。「…反対する人たちを柔和に教え導きなさい(Ⅱテモテ2:24~25)」ただ心優しく、何でも相手を良しとし、無分別に赦し、対決しない者が柔和な者ではありません。相手の益のために、教会の益のために苦言を呈さなければならない時があります。しかし、怒りや意地から自由にされて苦言を呈するのです。忍耐強く相手に善をなす、自分のメンツから自由にされて落ち着いて教える真の強さをもった者です。
何故そのような者は「幸い」なのでしょうか。「その人たちは地を受け継ぐからです(v5)」「地を受け継ぐ(v5)」とは当時のユダヤ人が真っ先に覚えたことは神の約束の地カナンを自分たちのものとしたことでした。「地を受け継ぐ(v5)」とは悪が除かれ、神の救いの支配が広げられていくことです。家庭、夫婦や親子の関係、職場に神の祝福、愛、喜び、平安、正しさが広げられていくことです。そして将来的に神の国の完成に用いられていくことです。そのために必要な者は力ある者でも人間的知恵がある者でもなく、「柔和な者(v5)」です。
モーセは最初から柔和な者ではありませんでした。しかし神は高ぶるモーセをミディアンの地で砕きました。エジプト脱出の指導者に召し、今度は恐れるモーセにともにいると約束され背中を押しました。エジプトの王パロとの最初の交渉で受け入れられず、イスラエルの民からひどく非難されるモーセに「わたしは主である」と繰り返し語られ再びパロ王との交渉に向かわせました。そしてモーセはひたすらに神に拠りすがりました。神はご自身との交わりの中でモーセを訓練し、忍耐強く、人を恐れない柔和な者、真に強い者へと形作っていったのです。モーセの柔和さは、生来の力によるものではなく、神との交わりにより神が培われたものでした。聖霊の実に「柔和(ガラテヤ5:23)」があります。
自分のうちに忍耐強さや真の強さが無いことを覚え、神の助けを求める貧しき者こそ「幸い」です。(v3、v4)相手の態度に怒りに満ちたり、また人への恐れに満ちるときには、幾度もモーセのごとく「主のもとに戻り(出エジプト6:22)」、聖霊によって「柔和な者」と新たにされていきましょう。時間をかけ、神によって柔和な者と訓練していただき、自分の持ち場に神の祝福をもたらす歩みへと導かれていきましょう。
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/1/11
守谷聖書教会礼拝説教要旨 2026/1/4
聖書箇所 マタイ5:1~3 5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。 5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。 説教要旨 2026年年間聖句はマタイ5章3節、年間主題は「救いを生きる教会」です。クリスチャンの在り方、生き方を知り、そう在らせ、そう生きさせていただきたいと願います。一年をかけて「山上の説教」の御言葉に聴いていきます。山上の説教をなす背景がまずv1とv2で語られています。ここには「群衆」と「弟子」が登場しています。主イエスは神の国をもたらす働きを開始され(4:17)、まず「弟子」を召されました。続いて会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中の病や悪から来る傷みを癒やされました。主イエスの評判は広まり、大勢の「群衆」が主イエスの回りに集まってきました。主イエスは「その群衆を見(v1)」られ、山に登られ腰を下ろされると、主イエスのもとに「弟子たちが来て(v1)」、その弟子たちに語られたのです。(v2)旧約時代、モーセがシナイ山でエジプトを脱出したイスラエルの民に律法を与えられたように、主イエスは山上で弟子たちに教えられたのです。すでに主イエスについていき、天の御国の中に招かれ歩み出した弟子たちに向かって、言わば教会、クリスチャンに向かって語られた教え、それが「山上の説教」です。聖霊が内に住む者たち、聖霊に拠り頼み助けをいただく者たちへの教えです。そしてその弟子たちの周りには群衆がいました。
守谷聖書教会2026年元旦礼拝説教要旨 2026/1/1
聖書箇所
詩篇46:1~11 指揮者のために。コラ人による。アラモテの調べにのせて。歌。 46:1 神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。 46:2 それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。 46:3 たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。セラ 46:4 川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。 46:5 神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。 46:6 国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。 46:7 万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ 46:8 来て見よ。【主】のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。 46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。 46:10 「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」 46:11 万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ
説教要旨
2026年元旦、過ぎし一年の歩みが守られ、新しい一年を主に礼拝を捧げ始められますことを感謝します。詩篇46篇の御言葉に聴きます。この詩篇は、紀元前700年頃、南ユダ王国の都エルサレムがアッシリア帝国により包囲され、しかし神の御業により救い出されたことを背景としていると考えられています。(Ⅱ列王記18~19章)「神をほめたたえる歌」であり「神への信頼の歌」です。神は敵との戦いにおいて「避け所(v1)」、敵の攻撃から守ってくださるお方である。防御だけか。そうではない。神は「力(v1)」。敵との戦いにおいて力あるお方である。その「防御」と「力」を合わせ「苦しむとき そこにある強き助け(v1)」。「そこにある」とは「見出すことができる」「手に取ることができる」との意味です。「川がある。その豊かな流れは 神の都を喜ばせる(v4)」エルサレムに川はありません。ヒゼキヤ王は地下水路を作り、それによりアッシリア軍の包囲の中で水が確保されエルサレムの人々が生き延びたことを背景とし、エルサレムは外側から敵に包囲されても内側は神の恵みが注がれ喜びが与えられると歌いました。「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である(v7、v11)」「万軍の(v7)」とは「出かける」との意味です。神がともに出かけ戦ってくださる。「砦(v7)」とは高い所にかくまわれることです。「我らの避け所 また力。苦しむとき そこにある強き助け(v1)」との信頼が繰り返されているのです。
この詩の背景とするところは敵国との戦いです。それを私たちの歩みに当てはめる時にこの世における苦難と言えるでしょう。病、肉体の衰え、起こって来る一つひとつの出来事、負っている務め、家族の看病や介護…。また自らの罪との戦い、神から離れさせよとするサタンの誘惑。しかし「神は、…苦しむとき、そこにある強き助け(v1)」です。苦難において神は具体的に助けてくださるのです。介入してくださるのです。逃れの道を備えてくださるのです。また「川(v4)」は聖霊を象徴的に表しています。包囲された都に川が流れるように、聖霊は苦しみの状況のただ中で私たちのたましいを新たにし、神の平安を与え、落ち着いた心を取り戻してくださるのです。
二つの主の招きの言葉に聴きましょう。「来て 見よ 主のみわざを 主は地で恐るべきことをなされた(v8)」アッシリア軍を倒された主のみわざを来て見よと促しているのでしょう。新約時代における主のみわざとは何でしょうか。イエス・キリストが私たちを愛し十字架にかかり死なれ、罪と死と悪に打ち勝ち、私たちを主のものとしてくださったことです。私たちは主のものです。また過ぎし一年を振り返り主のみわざを見ましょう。課題、重荷、恐れ。でも、こうして元旦の朝を迎えたではないか。苦しみの中で幾度も失敗がありましたが、主は赦し、慰め、力を与え、苦難の中でも不思議と心の奥底に平安があったではないか。なぜか。あなたの努力だけか。あなたの工夫だけか。そうではない。主が私たちの苦しむときにそこにある助けであったからです。「やめよ。知れ。わたしこそ神(v10)」「やめよ」とは「静まる、手を引く、手放す」との意味です。人間の工夫、何かをなすこと、人を求めることをひとまず止めて、神の前に静まれ、神の前に重荷を手放してみよ。ヒゼキヤ王はアッシリアの嘲りの手紙を「受け取って読み、主の宮に上って行き、それを主の前に広げた。…主の前で祈った(Ⅱ列王記19:14~15)」のです。
新年、2026年を迎えました。主イエスの十字架と復活の御業を仰ぎ主のものとされていることを確信しましょう。過ぎし一年の主の助けをしっかり見ましょう。握りしめているものを神の前に広げましょう。神に助けを求め、聖霊によって魂が新しくされることを求め、一つひとつ助けをいただきながら一日一日を歩んでいきましょう。
