聖書メッセージ(ヤコブ1:1)『しもべヤコブ』

『しもべヤコブ』


聖書箇所 ヤコブ1:1

1:1 神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。


説教要旨

本日より、ヤコブ書を見て参ります。この手紙の著者は、主イエスの兄弟のヤコブであると言われております。ヤコブは、初め主イエスを信じていませんでしたが(ヨハネ7:35)、主イエスが十字架で死なれ、復活された後、主イエスを信じ従う者となり、後に、エルサレム教会の指導者となっていきました。(使徒12:17)使徒15章では、人の救いの教理に関するエルサレム会議が行われておりますが、その会議で議長の働きをしております。また、パウロが伝道旅行に出かけ、その報告をヤコブにしております。(使徒21:18)ヤコブは、紀元62年頃、殉教したと言われております。手紙の宛先は、「国外に散っている十二部族(v1)」、即ち主イエスを信じた故に迫害にあい、エルサレムから国外に散ったユダヤ人キリスト者です。年代は、ヤコブが殉教する前、紀元60年頃のものです。


主な内容は、私たちがいかに生きるかという行ないが記されております。「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。(2:17)」「人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。(2:24)」福音書やパウロ書簡、そして、ヤコブ自身が議長を務めたエルサレム会議において、人が罪赦され、神の目に義と認められ、神との交わりが与えられ、神の子とせられるのは、行ないによるのではなく、人間の罪の身代わりに十字架に死なれ贖罪の業を成し遂げた主イエスを信じる信仰によると記し、確認されました。しかし、このヤコブの手紙では、「行ないによって義と認められる(2:24)」と言われており、矛盾するのではないかと思うのです。確かに、ヤコブ書においては、主イエスの十字架と復活が一度も記されておりません。しかし、主イエスの救いを抜きにしているのでは決してありません。(1:18)主イエスの十字架と復活による救いを当然の土台としているのです。ヤコブが告げたいことは、主イエスへの信仰は、行ないを生み出すということです。行ないは、信仰の証拠ということです。クリスチャンの成熟が示されております。それは、単に「こう生きよ」「こうするな」という倫理道徳的な教えを上からかざしているのではありません。主イエスにあることの故に、御言葉に聴くことの故に、造り変えられていくことができるとの愛の励ましの手紙です。


「あいさつを送ります(v1)」との言葉は、「喜ぶ」という言葉で、直訳は「喜びがありますように」とか「喜びなさい」です。迫害にあい、エルサレムから散らされ苦闘している信仰の友を深く覚え、神と主イエスにある喜びがあるように、その喜びの中に生き、成熟していくようにとの思いが込められています。そのようなことを覚えるときに「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ(v1)」とのただ一言の自己紹介が心に響いてきます。主イエスの兄弟であるとは述べておらず、またエルサレム教会で柱として重んじられていたとも述べておりません。神と主イエスのご愛に身を浸しているヤコブが見えてきます。そして、神と主イエスのものとされている喜びが見えてきます。自らを「しもべ」としています。「しもべ」とは、「主人に対し従順で、自らを明け渡している者」のことです。神と主イエスの十字架の愛に浸り、その神と主イエスに自らを明け渡しているヤコブです。但し、しもべですが「雇い人」ではありません。雇い人は、自分の行ないにより、主人との関係を切られる可能性があり、いつもびくびくしていなければなりません。神は、私たちを、主イエス・キリストにより「雇い人」ではなく「神の子ども」として下さいました。父親は、子どもの働き以前に、その存在そのものを喜びます。そして、子どもは自分の存在を受け入れられているという喜びと平安の中で、自発的に父親が喜ぶ歩みをなしていくのです。


神と主イエスの愛の中で、神と主イエスに信頼し、従順に従い、自らを明け渡し、神の御旨に造り変えられて生きていきたいと願います。