聖書メッセージ『恵みと平安が』(Ⅱテサロニケ1:1~2)

聖書箇所 Ⅱテサロニケ1:1~2

1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、私たちの父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。

1:2 父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

 

説教要旨

本日より、Ⅱテサロニケ書の御言葉に聴いていきます。Ⅱテサロニケ書は、「パウロ、シルワノ、テモテ(v1)」により、Ⅰテサロニケ人書が記された数か月後に記されました。Ⅰテサロニケ書と同様、パウロは宛先を「父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ(v1)」と記しました。ここには「教会の本質」が示されています。「テサロニケ人の教会へ」テサロニケの地に建てられている教会なのです。教会は、非歴史的、概念的なものではなく、歴史的、地理的、即ち世の現実の中に在るのです。「父なる神および主イエス・キリストにある(v1)」「にある(v1)」とは、「基」「根源」を示しております。テサロニケ教会の土台は、父なる神と主イエス・キリストでした。教会は、人間が作ったグループや集まりではなく、父なる神と主イエス・キリストが召し出して下さった集まりです。それは、ただ父なる神および主イエス・キリストと各個人が結ばれているというのではなく、互いに交わりがある群れであるのです。それは、主日ごとに呼び集められ、ともに神を礼拝し、主イエスの恵みに与り、互いに交わりを持ち、またそれぞれの持ち場に遣わされ、また、それぞれの持ち場でも教会の交わりの中に置かれており、祈られ祈る交わりの中に在るのです。

 

テサロニケ教会が「父なる神および主イエス・キリストにある(v1)」とせられたのは、「父なる神と主イエス・キリストの恵みと平安(v2)」によるものでした。「恵み(v2)」とは、価しない者に向かって神がお与えになる愛の顧みです。私たち人間は、神に創造されましたが、神に背き、神から離れ、思いと言葉と行ないにおいて罪を犯し、聖なる神の前に立ち得ない者です。しかし、神は、その私たちを一方的に愛し、私たちの罪の身代わりに御子イエス・キリストを十字架に架け裁かれ、私たちに救いの道をご用意下さったのです。神は、この御子イエス・キリストの十字架と復活の恵みにより、神との「平和(v2)」を与えて下さるのです。私たちは、神の一方的な恵みにより、イエス・キリストを信じ、神との平和が与えられました。神の前に一切の罪が赦され、神を「父」と呼ぶ神の子どもとされ、天の御国の希望が与えられたのです。この父なる神と主イエス・キリストの恵みと平安は、「あなたがたの上にありますように。(v2)」と、救いに与った時のものだけではありません。パウロは、ここで父なる神と主イエス・キリストの恵みと平安がないので、これから与えられるようにと祈っているのではなく、ますます父なる神と主イエス・キリストの恵みと平安が与えられ、その恵みと平安の中を歩んでいくことができるようにと祈ったのでした。天の御国での救いの完成に向かって、私たちの魂を造り変えて下さる神の恵みです。愛し仕える者とせられていく神の恵みです。迫害と苦難の中で信仰に堅く立ち、強め立たせて下さる神の恵みです。日々の働きをなし、日々の必要が備えられ、苦しみから守り、また苦しみの中で支えて下さる神の恵みです。その神の恵みがいよいよ与えられ、いよいよ神との平和、互いに愛し合い仕え合い歩んでいく互いの平和の中を共に歩んでいくのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。(哀歌3:22~24)」

 

神の恵みは、朝毎に新しいもので、尽きることがありません。昨日がいかなる歩みであったとしても、神は朝毎にその恵みを新しく与えて下さるのです。ですから、私たちは、天の御国を仰ぎつつ、神の恵みに日々与り、神との交わりの中に置かれ、そして神の恵みに応答し日々自らを神にお捧げしましょう。神の恵みに押し出されて、神の平和の内に、与えられた務めに謙遜に、力強く歩ませていただき、神の栄光を現わしていく歩みへ共に導かれて参りましょう。