2017年夏号「しなやかな心」

 

「パパ、牧師なんだから」

先日、5年生の息子が約束したことを破り、それに怒った私は、息子が「ごめんなさい」と言っても、赦すことをせず、いじわるな態度を取り続けました。

それらをすべて冷静に見ていた2年生の娘は、「パパ、牧師なんだから」と一言。

 

私は、娘にイラっとしましたが、返す言葉もなく、また、自分が聖書から日曜礼拝で語っている言葉が走馬灯のように頭の中を駆け巡りました。

 

しなやかな心

ある牧師は、健康な心とは「しなやかな心」だと述べました。様々な出来事が起きても、それらを受け止められるしなやかなみずみずしい心が、健康な心だと。

 

一方、不健康な心とは「硬直化した心」だと。頑固に凝り固まって融通がきかない。心がかさかさに渇いている。何かイライラしている。いつもだったら優しく受け止めていたのに、又は流すことができていたのに、伴侶や子どもの一つひとつの言動が気になる。

 

いのちの源

聖書では、しなやかなみずみずしい心を「いのち」と言っております。

 

「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。(エレミヤ書2:13)」

 

聖書は、私たちのいのちの源は、私たちを創造された神にあると伝えております。しかし、私たち人間は、そのいのちの源である神を捨て、神の所には向かわず、手近に水を溜めておき、その水から心を必死に満たそうとします。

 

趣味であったり、人の優しさや言葉であったり…。それらは、潤いをもたらすでしょう。でも、根源を満たさないのではないでしょうか。そして、再び違う水ためを掘ることを繰り返すのではないでしょうか。

 

わたしが与える水

イエス・キリストは、仰せられました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:13、14)」

 

イエス・キリストは、私たちをいのちの源である神へと立ち返らせるために、私たちの罪の身代わりに十字架に架かり死なれ、神に立ち返る救いの道をご用意下さいました。私たちの罪を赦し、私たちを神の子どもとし、私たちに新しいいのちを与えて下さるのです。

 

天のお父さま

もう何かの水ためを掘る必要はなく、まず神の前に出て、「天のお父さま」と祈る時に、天の父なる神は、愛の中で私たちを造り変え、しなやかなみずみずしい心を与えて下さいます。失敗や弱さで伏せる私たちを決して見捨てず、優しく新たに立たせ、善き道を一歩一歩備えて下さいます。「だれでも」とイエス・キリストは、私を、あなたを招かれているのです。

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チャペルタイムスNo45(2017年夏号)
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