聖書メッセージ『永遠のいのち』(ヨハネ黙示録21:1~4)(使徒信条14)

聖書箇所 ヨハネ黙示録21:1~4 

21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、

21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

 

説教要旨

本日は「永遠のいのち」の告白を見ます。創造者なる神は、神に背き、神との交わりを失い、罪の内にある私たちを愛し、二千年前、独り子イエス・キリストをお与え下さいました。キリストは、私たちの罪の身代わりに十字架で神の裁きを受けられ、死なれました。それは、私たちがキリストを信じ、神の前に罪赦され、永遠のいのちを得るためでした。(ヨハネ3:16、20:31)いのちを失っている私たちがいのちを得るためであったのです。

 

では、「永遠のいのち」とは、何でしょうか。ニカイア・コンスタンティノポリス信条では、「来たるべき世のいのち」と告白します。永遠のいのちとは、「いつまでも続くいのち」という時間的なことを中心に表しているのではなく、「天国のいのち」という質的なことを中心に表しています。天国とは、神の住まうところ、イエス・キリストのおられるところです。「永遠のいのち」とは、この世の生が終わった後に、天の御国で神とともに生きることです。「ともに(v3)」という言葉が三度も繰り返されています。顔と顔とを合わせて、神と相まみえるのです。今は完全に神を知りませんが、その時には完全に神を知ることができるのです。(Ⅰコリント13:12)神が私たちにとってすべてのすべてとなるのです。全き礼拝、全き喜び、全き安息に与ることができるのです。私たちの最大の恐れである「死」はなく、また、今この地上で覚えている「悲しみ」「叫び」「苦しみ」から一切解放されるのです。キリストにあって死は終わりや絶望ではなく、神の住まう天の御国への入り口です。ハイデルベルグ信仰問答には「この生涯の後には、目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる」とあります。

 

しかし、永遠のいのちは、この世の生を終え、初めてそこで神から与えられるのではなく、キリストを信じたその時から私たちの内に始まっていくのです。御子イエス・キリストを信じる者は、「すでに」永遠のいのちを持っています。地上での生涯を終え、天の御国で神とともに住むことを「結婚」と例えるならば、イエス・キリストを信じたその時点は「婚約」と例えられるでしょう。婚約は、夫婦としてともに住むのではありません。完全な交わりがあるのでもありません。でも、将来の結婚に向けての生きた交わりが始まっていきます。神は、イエス・キリストは、私たちと今「すでに」ともにおられます。そして、神との交わり、永遠のいのちに生かされていく時に、私たちは造り変えられていきます。聖霊は、私たちの傍らにおられ、造り変えて下さいます。パウロは、それを御霊の実と述べました。(ガラテヤ5:22~23)キリスト者であっても課題としている内なる罪を抱えたままでいることもあります。でも、イエス・キリストは、私たちとともにいて、私たちの「ごめんなさい」の告白を聞き、赦し続け、「助けてください」との叫びを聞き、魂を取扱い聖めて下さいます。また、神は、私たちの様々な闘いの只中に今すでにともにおられます。この地上では、呻きがあります。しかし、イエス・キリストは、羊飼いとして、死の陰の谷を歩くことがあっても、私たちとともにいて下さるのです。

 

今、私たちは、「すでに」と「やがて」の間に生きております。やがて与えられる永遠のいのちの完成を待ち望みながら、すでに与えられている永遠のいのちの恵みに生かされ歩んでいくのです。永遠のいのちは、死を乗り越えるいのちであり、そして、今の生を生かすいのちです。神は、あなたが永遠のいのちを得ることを切願しておられます。救い主イエス・キリストを信じ、永遠のいのちをお持ちいただきたいのです。また、キリスト者は、天の御国で、神と相まみえる希望を抱き、一日一日を主とともに歩んで参りましょう。日々の闘いは、主の戦いであり、イエス・キリストがともにおられます。神との交わりである永遠のいのちに生かされ、聖められ、慰め強められ、天の御国に向かっての旅路を歩んで参りましょう。