二つの叫び

あいつといると苦しい…

「あいつといると苦しい…」高校時代のことです。弓道部に所属していました。一年生の時、最も仲良くふざけ合っていた一人の友。しかし、先輩が引退し自分たちが中心となった時、何かのきっかけで合わなくなり、目を合わせず口もきかず、彼とともにいる時と空間が苦痛と緊張の日々となりました。彼は友人が多くありませんでした。それが私を安心させ、彼の前でクラスの友人と共にいることを密かに誇り、逆にいつも独りの彼がたまたま誰か友人といると焦り心穏やかでいられなくなりました。表面的には楽しく振る舞っていましたが、そんな自分が嫌で仕方ありませんでした。でも、どうすることもできませんでした。

そのまま卒業しました。

 

親鸞の魅力

昨年「仏教とキリスト教」とのテーマで講演して下さった大和昌平先生(東京基督教大学教授)を今年もお迎えします。「日本人とキリスト教」とのテーマで三回に渡ってお話し下さいます。その一回目は「親鸞とキリスト教」です。親鸞は鎌倉時代の僧侶で、現代の日本人が好む思想家のひとりでしょう。親鸞の言葉を晩年の直弟子の唯円が書き残した『歎異抄』には、「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし(どのような良い行ないもなしえない私には、どうしても地獄以外に住み家はないから)」との言葉があります。親鸞の魅力は、自分の内に抱える闇を凝視して目をそらさず向き合い続けたところでしょう。

 

パウロの叫び

親鸞は、新約聖書の幾つかを記したパウロと対比されます。パウロは「義人はいない。一人もいない。(ローマ3:10)」と記し、「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。…私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:19、24)」と嘆き叫びました。私はクリスチャンの家庭に生まれ、幼い時から聖書の話を聞いてきましたが、それは遠い昔の遠い国の「物語」でした。でも、高校時代、先の友人との関係等の中で、このパウロの言葉と出遭った時、初めて「聖書に自分のことが書いてある」と思いました。パウロは、嘆き叫んだ直後に続けます。「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。(ローマ7:25)」この惨めなどうすることもできない私を十字架で身代わりに死に罪の中から救い出して下さったイエス・キリストという救い主が事実おられる、と叫んだのです。

 

十字架は山の下に

教会の方々にお尋ねすることがあります。「イエス・キリストの十字架は、山の上に立っているでしょうか?山の下でしょうか?」答えは「山の下」です。私たちが良くなってキリストの愛と救いに与るのではないのです。どうしようもない私たちの下に、隣にキリストの十字架は立っていて、私たちを愛し、罪を赦し、新しく立ち上がらせて下さいます。

秋の特別集会にお出掛け下さい。お待ちしています。

 

守谷聖書教会

牧師 鈴木洋宣