聖書メッセージ『主の栄光のために』(イザヤ43:7)

聖書箇所 イザヤ43:7

43:7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った。

 

説教要旨

本日は、v7の御言葉に聴きます。「わたしの名で呼ばれるすべての者(v7)」とは、神の名「主」で呼ばれるすべての者、即ち主の民イスラエル、そして新約時代において教会のことです。v1においてイスラエルの贖いが神のイスラエル創造に基づいていることが語られ、ここでも贖いが創造に基づいていることが告げられています。また「創造(v7)」とは、イスラエルを造ったことを表しているだけではなく、贖うこと(救い形成する(再創造))も表しています。(詩篇100:3)この「創造」と「贖い」が「創造した」「形造り」「造った」と三つの異なる言葉で語られています。神は私たちを丁寧に創造し、御言葉と試練の中で時間をかけ形造って下さいます。

 

イスラエルを創造し、贖うのは「わたしの栄光のために(v7)」と目的が告げられています。「わたしの栄光のために(v7)」とは、どういうことでしょうか?第一は、神を礼拝すること、神が崇められほめたたえられることです。(27:13)(42:8)(48:11)私たちは、神を知る前は、ただひたすら自分が評価され、称賛を受けるための人生でした。しかし、そこにはいつも恐れや不安があり、不自由な歩みでした。しかし、神を礼拝し、主が崇められることに焦点が置かれていく人生は、人の称賛が第一ではなく、神を神とする自由と平安の中を歩んでいくことができるのです。私たちが創造され、贖われたのは、神を礼拝し、神が崇められほめたえられるため、その自由と喜びの中に私たちが歩んでいくことができるためです。

 

第二は、神が世に明らかにされ、知らされることです。「わたし、このわたしが主であり、ほかに救い主はいない(v11)」とあります。また、「わたしの栄誉を宣べ伝える(v21)」とあります。48:9~11を見ますと、神の栄誉のため、ご自身の名が汚されないためにイスラエルを贖ったのです。イスラエルに功があったのではなく、神はご自身の憐れみと真実にかけて民を救い形成されたのです。即ち、神の栄光のためとは、神が救い主であり、憐み深い神であることが他国に明らかにされ、知らされることであるのです。神は、私たちを、私たちの功によらず、ご自身の憐れみと真実にかけて、御子イエス・キリストの十字架により救い形成して下さいました。教会は、その憐れみ深き神が世に明らかにされ知らされるため造られ形成されているのです。神の栄光が現されると言うと、私たちが神の栄光を現すというように思います。しかし、それよりも神の栄光、憐み深い神が私たちを通して映し出されることです。教団の世の光紙に松原湖キャンプ場の写真が載っていました。シオンという建物があって、すぐ下に大月湖という小さな湖があるのですが、湖にシオンの建物が映し出されていました。

 

私たちをまるごと愛し、お救い下さった憐み深き神が、私たちにおいて、世に映し出されていくのです。「…私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。(Ⅰテモテ1:15~16)」ですから、神の栄光を現すとは、何か私たちの立派さではない、何かすごいことをすることではない。罪深き者が神に救われ、神の愛と赦しによってただ立ち、神の愛に生かされている、そこに神の栄光が現されるのです。「あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。(コロサイ3:12)」憐みを受けた器、神の愛を映し出す器として立てられています。そして、そういう者へと、主は、私たちを「創造し」「形造り」「造った」と、御言葉と試練の中でじっくりと造り変えお養い下さいます。

 

主なる神を礼拝し、主に栄光を帰し、真の自由と喜びの中を歩んで参りましょう。主の愛、主の憐れみと真実を受けた、受けている愛の器として私の隣人のところへ新たに遣わされていきたいと願います。遣わされたところで愛の器として在り、語り、行ないをなしたいと願います。