聖書メッセージ

茨城県守谷市にある、守谷聖書教会の日曜日の礼拝のメッセージ(礼拝説教要旨)を掲載しています。聖書のことばがそれぞれの助けとなりますように。


聖書メッセージ『キリストのうちに根ざし』(コロサイ2:6~23)

聖書箇所 コロサイ2:6~23
2:6 このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。
2:7 キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。
2:8 あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。
2:12 バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。
2:13 背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、
2:14 私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。
2:15 そして、様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。
2:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。
2:17 これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。
2:18 自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、
2:19 かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。
2:20 もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、
2:21 「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。
2:22 これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。
2:23 これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。


説教要旨
パウロは、いよいよ手紙の主題である、コロサイ教会に入った誤った教えがいかなるものであるかを記し、それらの教えに注意し、イエス・キリストにあって歩むよう記していきます。「…あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから(v6)」コロサイ教会は、使徒パウロの教えに基づいてイエス・キリストを信じました。「キリストにあって歩みなさい(v6)」キリストの内に自らを委ね、キリストを土台として建て上げられ、教えられた通り信仰を堅くし、あふれるばかり神に感謝して歩むのです。

 

しかし、コロサイ教会には誤った教えが入っていました。それは「空しいだましごとの哲学(v8)」「人間の言い伝えによるもの(v8)」と、人間の教えでした。v16を見ると、旧約聖書の律法の諸規則が重視されていたようです。しかし、諸規則はキリストにより成就され、それらは影であり、あくまでも本体はイエス・キリストです。v18を見ると、必要以上に自分を卑下し、神に近づくためにキリストだけではなく、御使いを礼拝する教えがあったようです。御使いを見たというような特殊体験を信仰の拠り所として誇り、かしらそのものであるキリストにしっかりと結びつくことをしていませんでした。v21を見ると、禁欲主義的な教えもありました。肉体の苦行をもって神に近づこうとしました。パウロは、その人間の教えの背後にサタンの働きがあることを告げ(v8)、これらの教えは様々な形を取っていましたが、いずれも「キリストによるものではありません(v8)」と、キリストを否定し、人間の力や知恵による自力救済的な教えでした。

 

パウロは、ひたすらにイエス・キリストを指し示していきます。御使いや様々な霊ではない、キリストこそ神のご性質に満ち満ちておられ、神ご自身であられます。(v9)それ故にキリストを信じる者は、キリストに結ばれ、キリストにある新しいいのちに満たされていくのです。(v10)キリストは、すべての支配と権威のかしらであられます。(v10)続いて、パウロは、キリストと信仰者は「洗礼」により特別な関係があることを告げます。(v11~v13)キリストを信じ、洗礼を受けたことは、神から離れていた古い自分を脱ぎ捨て、キリストにある新しい命に生き始めるようになったのです。「キリストとともに葬られ、キリストとともによみがえらされた(v12)」といずれも受身形であり、「神はキリストとともに生かしてくださいました(v13)」とあるように、神の御業です。その神の御業である「私たちのすべての背きを赦し(v13)」を比喩的に記し明らかにします。(v14~v15)神はキリストの十字架において私たちを責めたてている神の前における罪、債務証書を全く無効として下さったのです。それだけでなく、神は、キリストの十字架と復活において、私たちを縛っていた罪の支配から解放して下さったのです。ローマの将軍が戦いに勝利し、ローマ市内を行進する時、後ろには征服した国の王や指揮官の武装が解かれ、捕虜として、人々のさらしものにされました。その将軍のように、イエス・キリストは、私たちを罪の縄目から解き、もう罪の支配にはなく、キリストの勝利の凱旋の行列に加えて下さったのです。人間の力による罪の解決はなく、ただキリストにより罪赦され、新しく生かされていくのです。だから、人間の知恵や力によるのではなく、キリストに根差し、建てられ、教えられた通りキリストへの信仰を堅くし、感謝の内に歩むのです。キリストの勝利の行列に加えられた者として、その行列の中で、即ちキリストをかしらとし、教会の交わりの中で歩んでいくのです。絶えず御言葉に聴き、素朴にキリストによりすがっていくのです。それで十分なのです。そこに新しいいのちに満ちた歩みが与えられていくのです。(ヨハネ15:5)

 

今年、「キリストにある成人として立つ教会」とのテーマを掲げています。「キリストにある」です。独りの闘いではありません。勝利者キリストがともにおられます。キリストに根差し歩んでいきましょう。それがすべてです。


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