聖書メッセージ

茨城県守谷市にある、守谷聖書教会の日曜日の礼拝のメッセージ(礼拝説教要旨)を掲載しています。聖書のことばがそれぞれの助けとなりますように。


聖書メッセージ『心の中で深く嘆息して』(マルコ8:1~26)

聖書箇所 マルコ8:1~26
8:1 そのころ、また大ぜいの人の群れが集まっていたが、食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。
8:2 「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。
8:3 空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます。」
8:4 弟子たちは答えた。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」
8:5 すると、イエスは尋ねられた。「パンはどれぐらいありますか。」弟子たちは、「七つです。」と答えた。
8:6 すると、イエスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃった。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
8:7 また、魚が少しばかりあったので、そのために感謝をささげてから、これも配るように言われた。
8:8 人々は食べて満腹した。そして余りのパン切れを七つのかごに取り集めた。
8:9 人々はおよそ四千人であった。それからイエスは、彼らを解散させられた。
8:10 そしてすぐに弟子たちとともに舟に乗り、ダルマヌタ地方へ行かれた。
8:11 パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。
8:12 イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」
8:13 イエスは彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
8:14 弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。
8:15 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」
8:16 そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。
8:17 それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。
8:18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」
8:20 「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」
8:21 イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」
8:22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエスに願った。
8:23 イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。
8:24 すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言った。
8:25 それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。
8:26 そこでイエスは、彼を家に帰し、「村にはいって行かないように。」と言われた。

 

説教要旨(歓迎礼拝)
今日の御言葉は、四つの出来事が記されています。第一は、主イエスは、大勢の群集が三日もご自身についてきて食べていない状況の時、弟子たちに食物の用意を告げました(v2~v3)。弟子たちは「こんなへんぴな所で、どこからパンを…(v4)」と述べました。彼らは、以前同じような状況で主の御業を経験しましたが(6:35~44)、辺鄙な場所のみを見、主イエスに求めることをしませんでした。主イエスは、七つのパンとわずかな魚を用いられ、四千人の人を満たされました。第二は、パリサイ人たちが主イエスのところに来て、救い主である証拠としての奇跡を求めました。主イエスは、心の中で深く嘆息されました。(v12)パリサイ人が「しるし」を求め訪ねてきたのは、主イエスの御業を見聞きしたからだったでしょう。救い主としてのしるしがなかったわけではありませんでした。問題なのは彼らの頑なさでした。慎重であることは大事なことで、闇雲に信じることは危険です。でも、人間の内には、神に信頼することを嫌う性質があるのです。それを聖書は「罪」と言います。罪とは、道徳的なことが中心ではなく、神を神としたくない、自分の力で生きているとしたい人間のおごりです。第三は、弟子たちが先程の余ったパンを持ってくるのを忘れた時、主イエスがパリサイ人とヘロデのパン種(教え)、即ち、奇跡がなければイエスを信じないとする頑なさを気をつけるよう述べました。弟子たちは、忘れてきたパンのことを言われていると思い、責任を押し付けあっていたのでしょう。主イエスは、その様子を見、二つのパンの奇跡を確認され、ご自身はわずかなパンからでも満たすことができる主、救い主である、どうしてご自身がともにおられないかのような議論をなすのかと告げました。


神は、イエス・キリストは、今も私たち人間の頑なさに呻いておられます。この世界を創造された神がおられます。神は、この世界をお造りになられ、私たち一人ひとりを造られ生かしておられます。しかし、私たちは、神に背き、神から離れ、罪の力に支配され、渇き、怖れ、目に見えるものを第一に求め、争い歩んでおります。神は、二千年前、私たちを愛し、御子イエス・キリストを与えて下さいました。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりに十字架に架かり、神に裁かれ捨てられ、死なれ、神に立ち返る救いの道をご用意下さいました。主イエスの十字架において、律法学者は「他人(複数形)は救った(15:31)」と述べ、「しるし」を認めていたのです。でも「十字架から降りてみよ。それを見たら信じるから(15:32)」と「しるし」を求め続けました。主イエスは、ご自身を救い主と認めず、神に対し頑なな者を愛し、神に立ち返らせるために、十字架から降りられなかったのではなく、降りなかったのです。イエス・キリストは、私たちの心の戸をノックされ、救いへと招いておられます。その救いの招きは、強引に強制されることはありません。待っておられるのです。「心の中で深く嘆息して(v12)」と、呻きながら、苦悶されながら待っておられるのです。


イエス・キリストが、そのように呻き、苦悶されながら待ち、頑なな心をお開き下さることが第四の出来事に示されているでしょう。主イエスは、目の見えない人の目を段階的に癒されました。「愛は、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます(Ⅰコリント13:7)」主イエスは、ご自身に頑なな者を愛し、忍耐し、心の戸をノックし続けることを止めないで、心の目をお開き下さるのです。また、ここで、目の癒しが段階的になされているのは、救いは、継続的な深まりがあることをも示しているでしょう。イエス・キリストをまず信じ踏み出し、いよいよ神を知り、救いの恵みを日々増して経験していくのです。


主イエスは、私たちの完璧な信仰の一歩ではなく、小さな信仰の一歩を待っておられ、豊かに祝福して下さいます。小さな信仰の一歩を踏み出し、神の救いの素晴らしい祝福の中に歩ませていただきましょう。


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