聖書メッセージ

茨城県守谷市にある、守谷聖書教会の日曜日の礼拝のメッセージ(礼拝説教要旨)を掲載しています。聖書のことばがそれぞれの助けとなりますように。


聖書メッセージ『わたしの宝』(出エジプト19:1~9)

聖書箇所 出エジプト19:1~9
19:1 エジプトの地を出たイスラエルの子らは、第三の新月の日にシナイの荒野に入った。
19:2 彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山を前に宿営した。
19:3 モーセが神のみもとに上って行くと、【主】が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。
19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。
19:5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」
19:7 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、【主】が命じられたこれらのことばをすべて、彼らの前に示した。
19:8 民はみな口をそろえて答えた。「私たちは【主】の言われたことをすべて行います。」それでモーセは民のことばを携えて【主】のもとに帰った。
19:9 【主】はモーセに言われた。「見よ。わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む。わたしがあなたに語るとき、民が聞いて、あなたをいつまでも信じるためである。」それからモーセは民のことばを【主】に告げた。

 

説教要旨
神はシナイ山でイスラエルをご自分の民とし、ご自分をイスラエルの神であると契約を結ばれました。エジプトを脱出し第三の月に入った時、イスラエルはシナイ山を前に宿営しました。(v1~v2)モーセが神のみもとへ行くと、主が山の上からモーセを呼び、民に告げよと仰せられました。(v3)神は民の嘆きを聞かれ、アブラハムに結ばれた契約を思い起こし(2:24)、エジプト脱出の御業を成し遂げられたこと、「鷲の翼に乗せて(v4)」と、親鷲が山の断崖の巣の中にいる子鷲の上を舞って誘い出し、子鷲が疲れてくると背に乗せて巣に戻るようにイスラエルを荒野で鍛えられねんごろに導かれたことを確認せられました。それは、契約は一方的な神の救いの御業、神の恵みを土台としていたためです。


契約は神の恵みに基づいていますが、民の側の責任もありました。神の救いの恵みに応じ、十戒をはじめとする律法に聴き従うことでした。(v5)しかし、勘違してはならないのは「わたしの声に聴き従うなら契約を結ぶ」と仰せられているのではないのです。あくまでも契約の土台は、神の救いの御業、神の恵みでした。神は、私たちが神の命令を守り、その報いとして私たちを愛し、赦し、御自身との関係を与えて下さったのではありません。神は私たちを一方的に愛し、神の恵み、御子イエス・キリストの十字架の贖いを通し、神との交わりを与えて下さいました。神の驚くべき恵みです。19章後半を見ますと、民は聖い神の前に立てないのです。しかし、モーセを介して神の前に立ち得たのです。私たちも本来聖い神の前に立ち得ないのです。しかし、神の一方的な恵み、御子の十字架の犠牲により、神の前に立ち得、特別な関係を結ばれたのです。この神の驚くべき恵みに応答し、神の御言葉に聴き従っていくのです。


神は私たちと恵みの内に契約を結ばれ、私たちが神の御言葉に聴き従う中で、私たちをいかなる者として下さるのでしょうか。「あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる(v5)」神はご自身の民を特別に目をかけ、訓練し、祝福をもって導かれます。被造物の故に愛しておられるだけではなく、贖われた民の故に特別に愛して下さっています。(イザヤ43:4、詩篇4:3)私たちの目には自分は弱く価値のないもののように見えるかもしれません。しかし、神の目には特別に高価で尊い、「わたしの宝(v5)」と見られているのです。また、「わたしの宝となる(v5)」とは、神の祝福の基となることをも表しています。「祭司の王国(v6)」:祭司とは神と人々の間に立ってとりなしをし、人々が神と交わりを持って生きることができるようにする人のことです。「聖なる国民(v6)」:第一義的には神の働きのために取り分けられた身分を表します。しかし、そこに性質の意味合いは含まれないというのではないでしょう。神は聖であるから聖でなければならない、入っていくカナンの風習に歩んではならないと言われています。(レビ記18:3、19:1)クリスチャンは証のためにこの世の人と違いはないことを強調して語る言葉を最近聞きます。確かに敷居を高くしたり、高慢であってはなりません。でも、聖書はこの世と同質化していく中で神の救いの証がなされるのではなく、この世に生きながらこの世とは異なる生き方において証がなされていくことを教えます。私たちは世との違いを怖れ、世との違いの中で闘いや寂しさを覚えます。でも違いがなければ祭司の務めはなせないのです。「…自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。(マルコ9:50)」


この朝、神は「わたしの宝」と贖われた私たちを特別に愛し目を留め取り扱い守り導いて下さることを覚えましょう。また、神は「祭司の王国」「聖なる民」と私たちに人々が神と交わりを持って生きることへと導く光栄ある使命を委ねて下さっていることを覚え、その使命のために祈り生き続けていきましょう。主は私たちを鷲の翼に乗せて導いて下さるのです。


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